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路地裏の妻8

2013/05/30 Thu 18:08

路地裏の妻8



 パートに向かう私は、異常な多幸感に浸っていました。
 すれ違う人、走り去る車、コインランドリーの薄汚れた看板と、アーケードの隅に立て掛けられた『ひったくり防止』の看板。そんな、目に映るもの全てがキラキラと輝き、その足取りは、まるで雲の上を歩いているようにふわふわしていました。
 それは、自分でも怖くなるくらいの多幸感でした。激しく上昇していく気の高ぶりように、不気味な危険性を感じながらも、それでも私は、夫に許してもらえたという喜びが抑えきれずにいたのでした。
 そんな私の様子に気付いたのか、アーケードの角にある肉屋の御主人が声を掛けてきました。その肉屋の御主人は、きっと豚に取り憑かれているのでしょう豚そのものの顔をしていました。
 豚の御主人は、いつも私が暗い顔をしてアーケードを歩いているのを見ていた為に特にそう思ったのでしょう、「奥さん、今日は随分とご機嫌だね」などと笑いかけてきたのでした。
 そんな豚の御主人に「んふっ」と微笑み、ついでにその隣りにある文具店のお婆ちゃんにも「んふっ」と微笑む私は、まるでミュージカルの主人公でした。ニコニコ笑いながらスキップし、挙げ句の果てには天を見上げて両手を広げ、くるくると回る始末でした。

 そんな浮かれた自分の姿が、不意にケーキ屋さんのショーウィンドウに映りました。
 それは、目を疑うほどに醜い姿でした。顔は歪み、目は異様にギラギラと輝き、まさに精神異常者そのものの顔をしていました。
 その顔を見た瞬間、今まで勢い良く上昇していた多幸感が急に止まりました。そして、アーケードの出口の横断歩道から聞こえて来る、ピッポッ、ピッポッ、ピッポッという信号音のリズムに合わせ、その感情がみるみる急下降していったのでした。

 いきなり重たい物が、ドーンっと頭上に落ちてきました。それは人間に体当たりされたような凄まじい衝撃でした。
 一瞬、誰かがビルから飛び降り、その誰かが私に追突したのだと咄嗟に思いました。
 私は、フラフラしながらも必死に死体を探しました。アーケードのタイル床をキョロキョロと見回し、アーケードの天井を見上げ、それを何度も何度も繰り返していました。
 すると、そこを通りかかったクロネコヤマトの配送員が「どうしました?」と声を掛けてきました。
 その男の顔見た瞬間、私の心臓が飛び跳ねました。なんとその男は、あの四万円の男だったのです。
 凍り付いた私は、男の顔をジッと見つめながら、前歯で噛んでいた唇を、引き千切れんばかりに噛み締めました。
 そんな私を見て男は笑いました。そして、死んだ魚のような目で私のジーンズの股間を見つめながら、「奥さんのオマンコ、蒸れてますよ」と囁かれ、不意にクリトリスを親指で押し潰されたような疼きを股間に感じました。

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 私は走り出しました。
 いきなり走り出した私を見て、慌てた豚の御主人が「どうしたの!」と叫びました。私は後ろを振り向かないまま「うるさい豚!」と叫び、全速力でアーケードを駆け抜けました。
 もの凄い勢いでアーケードを飛び出しました。そのまま信号で止まっていたタクシーの後部ドアに激突し、ドーンっと跳ね返されました。歩道にひっくり返った私を見て、運転手が慌てて運転席から飛び出して来ました。
「大丈夫か!」
 ボンネットに身を乗り出しながら私にそう叫ぶ運転手の顔を見上げた瞬間、再び私の心臓は飛び跳ねました。なんとその運転手は、またしてもあの四万円の男だったのです。
 私は歩道にひっくり返ったまま「どうして!」と叫びました。
 すると男は、またしてもニヤニヤと笑いながら、「旦那さんに嘘つきましたね」と呟きました。
 その声は酷く低音でした。回転数を間違えたアナログレコードのように遅く、まるで地の底から聞こえて来る魔物の声のように不気味でした。

 その声を聞いた瞬間、私は、自分がおかしくなっている事に気付きました。
 幻覚と幻聴。やはりあの異常な多幸感は、鬱状態に陥る前の危険な躁状態だったのだと気付いたのです。
 しかし、そう気付いたものの、脳はみるみる鬱の渦に巻き込まれてしまい、もはや自分の意思では感情を抑える事ができなくなってしまいました。
 私は悲鳴を上げながら立ち上がりました。そして運転手に「もうやめて!」と叫ぶと、再び歩道を走り出しました。
 私の叫び声に驚き、歩道を歩いていた人達が慌てて私を避けました。
 私は人の目から逃れようと、閉店している団子屋の横の細い通路に飛び込んだのでした。

 そこはアーケード街の裏通路でした。通路の左側は店舗の裏側になっており、右側は二メートル程のコンクリートブロックが、まるで万里の長城のように延々と続いていました。
 確かこのブロックの向こう側には大きなお寺がありましたから、きっとこのブロック塀はお寺とアーケードの境界塀なのです。
 そんな細い通路にはアーケード街の店舗から吐き出された段ボールやゴミ袋が所狭しと置かれていました。豚のように太った野良猫と、握り拳ほどあるネズミが走り回っていました。
 それらを蹴散らしながら奥へ奥へと走る私は、今日はパートを休んでこのまま家に帰ろうと思いました。そして、子供が学校から帰って来るまでの間、夫に激しく抱いてもらおうと考えていました。
 そんな思いに胸をときめかす私でしたが、しかし、私が走っている方向は家とは全く逆の方向でした。
 とにかくこの路地から抜け出し、一度アーケード街に出なければと思いました。
 店舗と店舗の隙間を見つける度に足を止め、そこから抜け出せないかと覗き込みました。隙間の向こうにアーケード街が見え、『大売出し』の赤い旗や、CDショップに貼られた演歌歌手のポスターなどが垣間見えます。
 しかしその隙間は、どこもエアコンの室外機や粗大ゴミなどで塞がれており、とても通り抜けれるようなものではありませんでした。
 それを何度も繰り返していると、早くここから抜け出したいという焦燥感が私を追い込み始めました。そして、もう二度とこの路地から出られないのではないかという強迫観念にとらわれ、激しい恐怖がゾワゾワと胸に迫ってきたのでした。

 突然、目の前に原因不明のチカチカした物が現れました。それは、顕微鏡で見る微生物のようなもので、例え瞼を閉じても消えてはくれず、常に視界の隅でチカチカと動き回っていました。
 そのチカチカが現れると、今度は鼻が妙にスースーと通り出しました。鼻孔を抜けて入って来る空気が直接脳に当たっているような気がして、脳が乾いていくような錯覚にとらわれました。
 その直後、いつもの頭痛がやって来ました。目の上と耳の後ろがズキズキと痛み出し、みるみる額に脂汗が滲んできました。強烈な息苦しさを覚え、私は大きく開いた口を空に向けると、ハァ……ハァ……と、激しい呼吸を繰り返しました。
 空を見上げたまま夢遊病者のようにフラフラ歩いていると、ふと、お寺の塀の向こうに『SEIYU』と赤く書かれた文字が見えました。

(そうか……この通路は、いつも西友に行く時に通る路地に繋がっているんだ……)

 そう気付いた瞬間、いきなり股間がズキンっとしました。そうです、その路地は、あの四万円の男と出会った忌々しい路地なのです。

 一歩一歩足を踏み出す度に、ジーンズに食い込んだ股間が擦れ、ジクジクと疼く陰部を刺激しました。
 歩きながらソッと股間に指を這わすと、ジーンズの中で勃起していたクリトリスがクニャっと押し潰され、思わず「ひっ」と声を漏らしてしまいました。

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 気が付くとアーケード街の裏通路は途切れ、いつの間にかコンクリート塀が金網のフェンスに変わっていました。
 見覚えのある狭い路地裏に出ました。
『警告』と書かれた赤紙が貼られた違法自転車がズラリと放置されるその隙間では、薄汚い野良猫たちがいつものように日向ぼっこをしていたのでした。

 一ヶ月前、私はこの路地であの男と出会い、いきなり四万円を渡されました。パチンコ店の駐車場の隅に連れて行かれ、そこで下着を脱がされ、陰部を剥き出したまましゃがまされました。男は私の恥ずかしい部分の匂いを嗅ぎながらオナニーを始めました。そして卑猥な言葉を囁きかけながら、私の陰部に精液をかけたのでした。
 それが、そもそもの原因でした。私が狂ったのも、夫が狂ったのも、何もかもがこの路地裏で起きたあの忌々しい出来事が始まりだったのです。

 金網のフェンスに沿って歩いて行くと、白いプレハブの景品交換所が見えてきました。時間が早いせいか、今日はまだ誰も並んでいませんでした。
 そこに漂う空気に、あの時の屈辱と羞恥が蘇り、激しい怒りと悲しみが込み上げてきました。
 あの出来事さえなければ、私たち夫婦は今までのように穏やかに暮らしていたのです。あの出来事さえなければ、あの男とこの路地で出会わなければ、と、そう思いながら下唇を噛み締めていると、ふと、廃墟のような長屋のトタン壁に、キリスト教の黒い看板を発見しました。

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 私はその看板を睨みました。
 そして「貧乏は罪ですか?」と、掠れた声で聞きました。
 すると、そう呟いた瞬間、まるで出番を待っていたかのように、突然路地の角から一人の男性がヌッと現れました。

 その男は、両手で大量のパチンコの景品を抱えていました。
 黒いズボンに白いワイシャツ。そのテカテカと輝く黒革の靴には見覚えがありました。
 男は私の横を通り過ぎながら、その貪よりとした目でゆっくりと私を捕らえました。
 すかさず背後で「あっ」という声が聞こえ、立ち止まる靴底の音がジリッと聞こえました。
 振り返ると、例の四万円の男がジッと私を見ていたのでした。

「また来たの?」

 男はそうニヤリと唇を歪ませながら、「ちょっと待ってて、これ、換金してくるから」と、急いで景品交換所へと向かいました。

 全身の毛穴から、嫌な汗が溢れていました。
 こんな偶然があるのだろうかと怖くなりました。
 再びキリストの看板を睨みました。
 そして、「全てあなたの仕業ですか?」と、憎しみを込めて下唇を噛みしめました。

 ジッと立ち竦んだままキリストの看板を睨んでいると、一万円札をペシャペシャと数えながら男が戻ってきました。
 私は男に言いました。「今夜、家族三人でバスクリンのお風呂に入るんです……」と正直に告げました。
 すると男は「えっ?」と首を傾げると、まるでキチガイでも見るような目で私を見ながらケラケラと笑い出したのでした。

 ぷんっと獣の臭いを感じました。
 それは、煙草の臭いであり、二日酔いの口臭であり、そして蒸れたペニスの饐えた臭いでもありました。
 そんな臭いに危険性を感じると共に、強烈な性欲を感じました。
 男は、握っていた札の中から、一万円札を五枚抜き取りました。
 それを、あの時と同じように私のトートバッグの中にスッと入れると、「今日は一枚多いから、ラブホでもいいでしょ」と不敵に笑い、さっさと歩き出しました。

 ラブホ……
 その言葉が脳に黒い渦を巻き起こしました。
 どこからか、ドラマ『特捜最前線』のオープニングナレーションが聞こえてきました。

 愛と死と憎悪が渦巻くメカニカルタウン……
 非常な犯罪捜査に挑む心優しき戦士たち……
 彼ら特捜最前線……

 今度こそ、殺される、と思いました。
 そう思えば思うほど、ジーンズが食い込んだ股間がウズウズと疼いてきました。

「早くおいで」

 路地の角で男が振り向きながら言いました。
 男の顔が、一瞬、夫の顔に見えました。
 そんな男の顔を見つめながら、今から私は、この見知らぬ痩せこけた男のペニスを舐めさせらたり、性器に入れられたりするんだと思いました。そして狂ったようにペニスをピストンされ、きっと私は涎を垂らして悶えまくるのだろうとそのシーンを想像すると、夫に対する罪悪感に胸が締め付けられました。

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 右側には、『SEIYU』と赤く書かれた文字が見えました。
 左側には、『罪を悔い改めなさい』という看板が見えました。
 そして正面には、男のいやらしい笑みが浮かんでいました。

 そんな路地裏からは一刻も早く逃げ出したほうがいいと、脳が必死に警鐘を鳴らしていました。

 しかし、この異常快楽を知ってしまった以上、もはや私は二度とこの路地裏から抜け出す事はできないでしょう。

 私は、一生この路地裏を彷徨うのです。

 この路地裏で、貧乏という大罪を一生償っていくのです。

 
(路地裏の妻・完)



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