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毒林檎8

2013/05/30 Thu 17:59

毒林檎8



 ペニスを咥えていた女の唇から唾液がダラダラと溢れていた。それが根元の陰毛の中へと垂れ、睾丸の隙間を伝っては太ももの内側へと流れていった。
 どうやら女は、俺が目を覚ましている事には気付いていないようだった。俺が目を覚ましそうになったと思い、息を殺して様子を伺っていたのだ。

 女はペニスを咥えたまま身動き一つできないでいた。ここで下手に動けば俺が目を覚ましてしまうと思っているのか、口からペニスを吐き出す事すらできなくなっていた。
 部屋は、怖いくらいにシーンっと静まり返っていた。既に俺の中では、女に襲いかかる意思はすっかり消えていた。チャイムを押そうとしている女の指が震えているのを見た瞬間、俺は冷静さを取り戻したのだ。
 女の指がそのチャイムを押した瞬間、俺の人生は終わる。女がそのチャイムを一度でも押せば、この快楽とは一変にして地獄が始まる。そう思うと、チャイムを押そうとしている女のその指は、まさに拳銃の引き金にかかっていると同じであり、その銃口を突き付けられた俺はもはや観念するしかなかったのだった。

 俺は目を半開きにさせながらも、黒目が動かないよう必死に堪えていた。一点をぼんやりと見つめたまま、スースーと嘘の寝息を立て、ひたすら眠ったフリを続けていた。
 女も身動き一つしなかった。ペニスを咥えたまま俺の目をジッと覗き込み、いつでもチャイムが押せるようにと親指を白いボタンに乗せたままだった。

 そんな一触即発な空気が続く中、静まり返った部屋には、何やら奇妙なノイズ音が微かに響いていた。
 ジー………と、一定の音程で響くそれは、電気カミソリのような音でもあり、電動歯ブラシのような音にも聞こえた。
 そのノイズは俺のすぐ頭上で響いていた。つまりそのノイズは、原田凉子が待機している隣の部屋から響いていたのだ。

 確かにこのホテルは随分と古く、壁も、隣の客の屁がまともに聞こえるくらいに薄かった。ここは姉歯とかが騒がれるずっと以前から建っているホテルであり、現代の建築基準と比べれば、三匹の子豚の最初の子豚の家に匹敵するレベルなのだ。
 余談だが、二〇〇五年に大騒ぎとなった姉歯の耐震強度偽装事件。千葉にある俺の実家の近くにも、別名『姉歯殺人物件』と呼ばれる五階建てのマンションが、『立ち入り禁止』の看板を立て掛けられたまま廃墟と化していた。
 当時、テレビのワイドショーや週刊誌等で『このマンションは震度五の地震で崩壊する』なんて騒がれたため、慌てた近所のおっさんたちが「直ちに解体せよ!」などと、全学連きどりでプラカード持って大騒ぎしていたが、結局行政は何もできず、このマンションは『負の遺産』として放置されたままになっていたのだった。
 それから数年後、東北沖を震源とした地震が発生した。それは千年に一度という大地震であり、当然関東地方もかなりの揺れに襲われた。
 千葉の俺の実家も大変だった。壁が剥がれ、ブロック塀の一部が崩れ、庭にいたマメ芝のピッピが右足を骨折した。隣の家も地面がウォーターベッドのように液状化してしまい、建物が傾いては『ピザの斜塔』のようになってしまった。
 そして、プラカードを持って騒いでいたおっさんの家も半壊した。二年前に増設したばかりの子供部屋がぺしゃんこに潰れてしまい、まるでゴジラに踏みつぶされたような無惨な状態となってしまった。
 が、しかし、そんな中、例の『姉歯殺人物件』はびくともしていなかった。壁にヒビひとつなく、千年に一度という大地震にも全く動じていなかった。
 地震後、皮肉にもその『姉歯殺人物件』が近所の避難所として使われていた。被災した近所のおばさん達は、まさかこんないいマンションに住めるとは思ってもいなかったと喜び、例のプラカードのおっさんなどは、いの一番に最上階の五階の角部屋南向きを占拠し、家族仲良く暮らしていた。
 因みに、姉歯はあの事件で懲役五年を喰らった。そして姉歯の妻は事件を苦にして自殺している………

 ……ま、そんな事はどーでもいいのだが、とにかく、昔のホテルと言うのは壁が異様に薄かった。これがホテルニュージャパンの火災事故前に建てられた安ホテルとなれば、もはや壁には断熱材や防音材もなく、壁に耳を押し付けるだけで隣の部屋の喘ぎ声が丸聞こえという、盗聴マニアには堪らない有り様なのだ。

 このホテルも見るからに古かった。壁のクロスや床の絨毯といった内装は最近リホームされたようだが、恐らく内部は、サザンが『いとしのエリー』をリリースし、若者達がインベーダーゲームに熱中していたバブル前の時代のままだろう。
 そんな時代の壁だったため、隣から聞こえて来る「ジー………」というノイズは、静まり返った俺達の部屋にまではっきりと響いていたのだった。

 俺はそんなノイズとハモるようにして、「スー……スー……」と寝息を立てながら、なんとかこの場を逃げ切ろうと必死になっていた。
 暫くすると、そんな俺の狸寝入りを信用したのか、女は持っていたチャイムをソッと離し、ゆっくりと体勢を変えた。そして咥えていたペニスに唇や舌が触れないように大きく口を開けると、そのまま静かに顔を上げた。

 女は、俺の横で正座したまま黙って俺の顔をジッと見つめていた。
 俺はあたかも、レム睡眠からノンレム睡眠に入りましたと言わんばかりに、穏やかな一定の寝息を維持していた。
 女が小さな溜め息をついた。
 遠くで響く右翼の街宣車の軍歌と、隣から聞こえてくる怪しいノイズ音を背景に、女の溜め息が鮮明に聞こえた。
 女はゆっくりとベッドを下りると、素足に絨毯をサラサラと鳴らしながら、ベッドの足下にある鏡台へと向かった。
 ベッドを真正面に映し出している悪趣味な鏡台を覗き込んだ女は、顔を斜めにさせたり横に向かせたりとしながら、乱れた髪を素早く手櫛で梳かした。そして鏡台の前に置いてあった黒いバッグの中をもう片方の手で漁ると、そこから四角い箱を取り出し、その箱の中からギザギザの切り口が付いたコンドームを一枚抜き取ったのだった。

 女はそれをポンっとベッドの上に投げ捨てると、そのまま浴室へと向かった。
 浴室のドアがガチャっと閉まると、暫くして便座の蓋を開ける音が聞こえて来た。
 俺は今しかないと思い、慌てて尻を掻いた。女の唾液が尻にまで伝わり、それが痒くて痒くて堪らなかったのだ。
 尻を掻いてホッとした俺は、すぐさま今のうちに掻き溜めしておこうとばかりに、鼻の下や脳天の頭皮、背中と脹ら脛と右頬をカリカリと掻きまくった。
 そうしている間にも、隣からは「ジー………」というノイズが聞こえていた。いったい原田凉子は何をしているんだろう、と思いながら、俺は浴室を気にしつつ、隣の壁に耳を押し当ててみた。
 壁と壁との空間には、ジー……という音が響いていた。まるでモーターで動く船のおもちゃが、スイッチを入れられたまま放置されているような、そんな感じの「ジー……」だった。
 それは、なんとなく聞き覚えのある音だった。
 俺は、電気カミソリじゃないし、電動歯ブラシでもないし……と色々考えながら壁に聞き耳を立てていると、ふと、ずっと遠くで鳴り響いていた右翼の街宣車の軍歌がスーッと遠ざかって行き、一瞬にして部屋が静まり返った。
 と、その瞬間、隣から聞こえて来る「ジー……」の音に混じり、何やらハァハァと荒い息づかいが聞こえた気がした。「んっ?」と顔を顰めながら息を止め、更に耳を澄ますと、今度は「あん」という、何とも悩ましい声が聞こえて来た。
 そこで俺はこの「ジー……」という音の正体に気付いた。
 そう、その音は、明らかにピンクローターのあのブィィィィィィィンというモーター音なのであった。

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 俺は乾いた喉にゴクリと唾を飲むと、まさか原田凉子が……と半信半疑になりながら、全神経を壁に集中させた。
 確かに、隣からは「あん、あん」という高音の喘ぎ声と、ジー……というモーター音が聞こえて来た。これはもう、どう考えても原田凉子がローターでオナニーしているとしか考えられないのだ。

(あの女弁護士も……こうして俺のように壁に耳を当て、こっちの部屋の様子を盗み聞きしながらオナニーしているのだろうか……)

 そう思いながらも俺は、(いや待てよ)と壁から耳を離し、慌てて部屋の中を見回した。

(あの女の事だ、そんなアナログな盗み聞きはしないだろう……あいつならきっと、もっとデジタルな方法を使うはずだ……)

 俺はベッドの横にあるサイドテーブルの引き出しを開けた。そしてベッドの下を覗き、壁にかけてある油絵の額縁の裏まで見てみたが、しかし、どこにもそれらしき物は見当たらなかった。
 俺は、考え過ぎかな……と思いながらも、再び壁に耳を押し当てた。するとその時、ふと、ベッドボードと壁の隙間に、黒い何かが挟まっているのが俺の目に飛び込んで来た。
 一瞬、カブトムシのメスが挟まっているのかと思ったが、しかしそれはまさしく小型の盗聴器だった。マッチ箱ほどの四角い盗聴器が、ベッドボードの裏側にピタリと張り付けられていたのだ。
(やっぱり!)
 そう慌てた俺は、すぐにその隙間に手を突っ込もうとしたが、しかしそれに触れると、こっちがソレに気付いた事を相手に悟られてしまうと思い、俺は慌てて手を引っ込めた。
 あの女弁護士は、こんな所に盗聴器を仕掛け、俺が暴走しないか盗聴していたのだ。そしてこの部屋で繰り広げられている様々な物音を聞いているうちに、いつしかモヤモヤと欲情してしまいオナニーを始めたのであろう。
 俺はそんな盗聴器を見つめながら、おもわず「ふっ」と鼻で笑ってしまった。

(女ヤリ手弁護士とか言われて周りからチヤホヤされてるけど、所詮はあの女も、盛りのついた中年女なんだよな……三十歳になるまで結婚もせず、恋人も持たず、仕事一筋で突っ走って来たエリート女が、こんな刺激的な生音を聞かされたら、ふふふふふ……そりゃあオナニーくらいしちゃうだろ……)

 そう理解しながら、それには触れないでおこうと再びベッドに寝転がった俺だったが、しかし、これに対してひとつだけ解せない事があった。

(俺の暴走を事前にキャッチする為に盗聴器を仕掛けたのはわかる……そして盗聴している間に欲情してしまった気持ちもわかる……が、しかし、どうしてあいつはピンクローターなんか持ってるんだ……)

 そう不思議に思っていると、浴室からトイレを流す音が聞こえて来た。
 俺は慌てて目を半開きにし、さっきと同じ状態で眠ったふりをした。
 そんな俺の閉じた瞼の裏には、女弁護士が知的にオナニーする卑猥な姿が鮮明に浮かび上がっていたのだった。

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(つづく)

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