うなぎの穴(3)
2013/05/30 Thu 17:39
「おら、ちゃんと持ってろよ、落とすんじゃねぇぞ」
開いた扉の向こうから、乞食老人の声が聞こえてきた。
「落っことしたら死んじまうからよ……死んじまったら銭になんねぇべ……」
乞食老人は東北訛りでそう呟きながら小屋の扉を開けた。
ガサガザっと戸が開く音と共に、ふと、隣町にある竹橋小学校の四年生の男子児童が、二週間ほど前から行方不明になっている事件を思い出した。町の至る所には、巨人軍の帽子をかぶった少年の顔写真入りのポスターが貼られており、不意にそのポスターの少年の顔が鮮明に浮かび上がっては僕の背筋を凍らせた。
口笛を吹きながら小屋の中に入って来た乞食老人の後に続き、両手に何かを抱える乞食女がヨタヨタとやって来た。
乞食女は、小屋に入るなりそれをドサッと地面に下ろした。真っ暗な土間にそれをズリズリと引きずる音が響き、その引きずられるものは、もがくようにしてガサガサと蠢いていた。
積み上げられた段ボールの裏で踞っていた僕の膝が、まるで電流を流したかのように小刻みに震えていた。
僕は親指を噛んだ。奥歯まで突っ込みおもいきり噛んだ。そうしないと、震える奥歯がガチガチと鳴ってしまうからだった。
間一髪だった。真っ暗な土間の中、生まれたての子馬のように震えていた僕は、乞食老人が戸を開ける寸前に段ボールの裏に潜り込んでいた。
しかし、一時的に隠れる事は出来たが、こんな場所に踞っていては見つかるのも時間の問題だった。
間一髪で助かったものの、事態は最悪だ。
なんと、段ボールの隙間から見える乞食老人の手には、ギラリと銀色に輝く出刃包丁が握られているのである。
「取りあえず、腹、かっ捌いて、内臓取っとけや」
乞食老人はそう言うと、しゃがんだままの乞食女の前にその出刃包丁を投げ捨てた。
(内臓取っちゃったら……その子は、死んじゃうじゃないか……)
そう思う僕は、今にも泣き出しそうだった。
半泣きになりながら、どうしてこんな所に来ちゃったんだろうと、改めて後悔した。
段ボールの裏で踞りながら、土間から聞こえるゴソゴソという不穏な音に脅えていると、不意に、先月の土曜日、駅裏の荒川ピカデリーに高橋と奥田と観に行った、映画『悪魔のいけにえ』を思い出した。
あの時僕は、暗い映画館の座席でポテトチップスを齧りながら、スクリーンに映る若者達にイライラしていた。田舎の廃墟の洋館などという、いかにも危険な場所に忍び込もうとする五人の若者たちに、「わざわざそんな所に行くな」と怒っていたのだ。
しかし五人の若者達は、まるで肝試しのように浮かれながらその洋館に忍び込んでしまった。案の定、若者達は、その洋館に潜んでいた狂った大男に捕まった。チェーンソーでズタズタに切り刻まれ、残虐に殺されてしまった。
それを見ながら僕は、「だからやめろと言ったじゃないか」と下唇を噛み、汗でびっしょりになった拳を強く握りしめた。その映画が終わるまでの間、やり場のない怒りと恐怖に苛まれていた僕だったが、しかし、映画館を出る頃には、「あんな馬鹿は死ねばいいんだ」と、鼻で笑ったものだった。
が、しかし、今の僕は、まさにあの馬鹿な若者だった。
いや、たかだか乞食女のパンツ欲しさにこんなに危険な小屋に侵入するとは、あの五人の若者達より、ずっとずっと馬鹿なのである。
(僕なんて……殺されて当然じゃないか……)
そう身震いした瞬間、いきなりブルルルルンっという凄まじい音が響いた。
聞き覚えのある音だった。そう、その音は、まさに『悪魔のいけにえ』で、レザーフェイスがチェーンソーのスターターを引っ張った時と同じ音なのである。
ブルルルルルンっ、ブルルルルルンっ、と何度もスターターロープを引っ張る音が鳴った。その音と共にチェーンソーで切り刻まれる若者達の悲惨な姿が鮮明に蘇った。
いきなりチェーンソーが始動する音がダダダダダダダダッっと小屋に響いた。すると、それと同時に小屋の天井にぶら下がっていた裸電球がパッと点いた。その音は、チェーンソーを立ち上げる音ではなく、発電機を立ち上げる音だった。
裸電球がぼんやり灯ると同時に、土間の真ん中に置かれた柳行李が目に飛び込んで来た。
それは随分と使い込まれた柳行李だった。カビで黒ずんだ底の編み目からは水がタラタラと溢れ、その中では何かが必死に蠢いている気配が感じられた。
取りあえず、その荷物が行方不明の児童でなかった事にホッとした僕だったが、しかし、これだけ明るければすぐに見つかってしまうと焦っていた。
乞食老人がバケツを持ってやって来た。柳行李の前にしゃがむと、ペティペティと音を立てながら黒いゴム手袋を両手に付け、「デカいのを二匹頂いとこうか」と、独り言を呟きながら柳行李の蓋を開けた。
蓋を開けた瞬間、ピタピタピタピタっという不気味な音が小屋に響いた。
乞食老人はその中に両手をズボッと差し込んだ。そして、抜けた前歯を剥き出しながら「この時期のは脂が乗ってるから美味いぞ」とケタケタと笑い、両手に救い上げた黒い物体をバケツの中にドバドバと落としたのだった。
柳行李の中身は大量のウナギだった。今夜は大漁だったと嬉しそうに笑う所から見て、夜な夜な彼らが大和田川でウナギを穫っている事が窺い知れた。
乞食老人は、バケツに移した大量のウナギの中から、大きなウナギを二匹選び出し、それを別の竹籠の中にツルンっと落とした。
そうしている間にも、乞食女は大きなまな板と出刃包丁を用意し、せっせと七輪に炭をおこし始めていた。
「んじゃあ、三ツ和さんとこに届けて来っからよ……」
乞食老人はそう言いながら立ち上がると、ウナギが蠢くバケツを重たそうに右手に持ち上げた。そして、七輪に向かってパタパタと団扇を鳴らしている乞食女を見下ろすと、「残ってる奴らはまだ子供だから、穴に捨てとけ」と呟き、そのまま大きな長靴をガポガポと鳴らしながら小屋を出て行ったのだった。
乞食老人が出て行った事で、幾分か恐怖は和らいだ。乞食女だけなら、このまま強行突破する事も出来るのだ。
そんな安心感が芽生えると、今までの緊張が一気に消えた。
ふと見ると、座敷の上には、乞食女の汚れたパンティーが無惨にも広げたままになっていた。黄色く変色したクロッチが裸電球に照らされ、そこに僕の精液がヌラヌラと卑猥に輝いていた。
パタパタと扇いでいた団扇を土間に置いた乞食女が、「よっこいしょ……」と呟きながら立ち上がり、蓋が開いたままの柳行李の中を覗き込んだ。
中にはウナギの稚魚が数匹残っているらしく、乞食女が柳行李を持ち上げると、ピタピタと水が跳ねる音が聞こえた。
乞食女はそれを持ったまま座敷に上がった。そして、そこで初めて汚された下着が無惨に広げられている事に気付き、柳行李を手にしたまま呆然と立ち竦んだ。
逃げるなら今だ、と思った。
が、しかし、乞食女は、思いもよらない行動に出た。下着のその部分を恐る恐る覗き込んでいた乞食女だったが、しかしなんと、そこに溜まった僕の精液を、人差し指でヌルヌルと掻き回し始めたのだ。
再び異様な興奮に襲われた。自分の精液が他人に見られているだけでなく、指でヌルヌルされているのだ。
何とも言えない興奮がムラムラと涌き上がって来た僕は、段ボールに隠れながら露出されたままのペニスを握った。ペニスは既に勃起しており、そのまま上下にシゴくと、心地良い快感が脳にジワッと広がった。
乞食女は指に絡み付く僕の精液を不思議そうに見つめていた。恐る恐る指の匂いを嗅ぎ、そして小さく首を傾げると、なんと、そのままその指をペロッと舐めたのだ。
乞食女は二度も指を舐めた。誰が見てもそれが精液だとわかるのに、それでも乞食女はそれを二度も舐めた。しかも、誰の精液かわからないのに……
僕はこのまま段ボールから這い出し、射精したいと思った。乞食女に見られながら、土間に精液を飛ばしたい衝動に駆られた。
しかし、いきなり乞食女はムクリと立ち上がった。そのまま何もなかったかのようにして柳行李を手に座敷の隅まで行った。
座敷の隅には一部だけ畳ではない部分があった。そこには古い板が張られており、その真ん中には地下に通じる扉のようなものがあった。
乞食女はその扉を開いた。ギギギっと扉が開くなり、ポチャン、ポチャン、という水の音が聞こえた。
どうやらこの小屋の下には川が通っているようだった。乞食女はその半畳ほどの穴の中を覗く事もなく、そこに柳行李の中で蠢いていたウナギの稚魚をザバザバと捨てたのだった。
空っぽになった柳行李を土間に投げ捨てると、乞食女は、精液がぶっかけられたパンティーには目もくれず、そのまま七輪へと向かった。
団扇で七輪をパタパタと扇ぎながら、もう片方の手で竹籠を手繰り寄せた。
竹籠の中には、大きなウナギが二匹蠢いていた。乞食女はそんな竹籠の中をチラッと覗くと、七輪を扇いでいた団扇を投げ捨て、何故かいきなりジーンズを脱ぎ始めたのだった。
(つづく)
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