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水のない噴水13

2012/11/17 Sat 04:26

水のない噴水13



 シーンッと静まり返った闇の中で、終わった、と凉子は呟いた。
 そして、完全に呼吸が止まっている彼を見つめながら、これでいいんだ、と自分に言い聞かせた。
 不思議な事に凉子は落ち着いていた。罪悪感も恐怖心も全くなく、まるで、『13日の金曜日』のエンディングのような安堵感に包まれていた。

 ふーっ………深い息を吐きながら頭の中を整理した。
 まずはタクシー運転手の大森に連絡を入れなくてはと思った時、そこでふと自分の手が血まみれだという事に気づいた。
 そこらじゅうに付いている指紋も拭き取らなければならなかった。大森を犯人に仕立て上げるには、まだやらなくてはならない事が沢山あるのだ。
 急がなければ、と焦った瞬間、ふと、暗闇に倒れる彼のペニスが未だ屹立している事に気づいた。
  息絶えても尚、勃起するペニス。
 それを目にして、初めて凉子は彼を愛おしく思った。
 ゴクリと唾を飲み込みながら一歩彼に歩み寄ると、彼の無惨な顔が月明かりに照らされていた。
 その顔を見た瞬間、なぜだか急に、彼と二人で環八沿いのデニーズでステーキを食べた時の事を思い出した。
 あれは確かクリスマスの夜だった。あのとき彼は、そのゴムのように固いステーキをくちゃくちゃさせながら、一言「ごめんね」と呟いた。「どうして?」と聞くと、彼は恥ずかしそうに笑いながら「固いから」と目を伏せた。
 そんなどうでもいい事が、突然鮮明に浮かび上がり、凉子の目から大量の涙が溢れた。
 気がつくと凉子は彼の足下にしゃがんでいた。
 彼が履いているズボンには見覚えがあった。その靴も、そのジャンパーもあの頃と同じだった。ボタンの外れたズボンから見えるその派手なトランクスなど、今まで何度洗濯したかわからない。
 そんなトランクスに手を伸ばしながら、凉子は「ごめんね」と呟いた。あの環八沿いのデニーズで彼が言った時のように、半分笑いながら「ごめんね」と何度も呟いた。
 体中が震え、鶏の鳴き声のような嗚咽が止めどなく漏れた。凉子は彼の脚にすがりつきながら乱れ狂ったように泣いた。そしてそのまま未だ反り立っている彼のペニスを喉の奥まで飲み込んだのだった。

 背後では雑草が揺れる音が継続的に続いていた。生暖かい夜風は突風に近く、彼の腰に跨がる凉子の黒髪を激しく乱していた。
 今朝のニュースで、大型の台風の接近に伴い集中豪雨がおきる可能性が高いと言っていたのを思い出した。
 その大雨で何もかも全て洗い流して欲しいと、そう思いながら激しく腰を振ると、揺れる彼の顔から真っ白な目玉がどろりと零れ、ドス黒く染まった包丁の刃を伝って地面に垂れ落ちた。
 彼のペニスは衰える事はなかった。まるで生きているかのように凉子の中で飛び跳ねていた。
 凉子が腰を落とす度に、腹に開いた無数の穴からぶちょぶちょと血が噴き出した。それはまるで噴水のようであり、この乾涸びた噴水にはおあつらえ向きの『血の噴水』だと思った。

 既に凉子の精神は麻痺していた。腹から溢れ出る内蔵を見ても、飛び出す目玉を見ても、もう何も感じなくなっていた。
 感じるのは性的快楽だけだった。死体とセックスしているという異常な快楽に精神を犯されているだけだった。
 既に数えきれないほどの絶頂に達していた凉子は、ふと、鬱蒼とした森の隙間から微かに見える群青色の空を見て我に返った。
 このままでは夜が明けてしまう。そう焦った凉子は彼のジャンパーの内ポケットの中から彼の携帯を取り出した。そして死体と結合したまま、彼の携帯でタクシー運転手の大森に電話をかけたのだった。

 大森はツーコールで電話に出た。余程凉子からの電話を待ちわびていたのか、大森は電話に出るなり、安堵のため息とともに「良かったぁ」と本音を漏らした。
「さっき教えた場所に来て下さい」
 そう告げると、大森は「今ですか、今すぐですか」と慌てて聞き直した。
「今すぐです。ただし、私はそこにはいません。事情がありまして、一足先に新宿にいますので、荷物を持って新宿まで来てください」
「…………」
「心配しないで下さい。約束のお金は荷物と一緒にそこに置いてあります。噴水場の入り口にミロのヴィーナスの石像がありますからその足下を見て下さい」
「わ、わかりました。とにかく今から現場に行ってみます」
 そのまま電話を切ろうとした大森を、凉子は「ちょっと……」と止めた。
「なんでしょう」
「……まだ……私とセックスしたいですか?……」
 凉子はそう囁きながら、再び腰を降り始めた。
「へへへへへ」と大森は恥ずかしそうに笑った後、妙にかしこまった声で「もちろんです」と答えた。
「私のオマンコをぐちょぐちょに掻き回してくれる?」
 艶かしい声でそう言うと、大森は湿った声で「ぐちょぐちょにしますよ……」と答えた。
 凉子は、大森のその声に「あぁぁん」と悶え、更に激しく腰を振った。
 目玉がぶら下がった彼の腹からは、血の噴水がブシュブシュと吹き出していた。大量に溢れるドス黒い血は、何十年間も乾いたままのコンクリートにジワジワと吸い込まれていた。
 再び生血を得た水のない噴水が歓んでいるようだった。
 彼を見下ろしながら腰を振る凉子は、ふとそう思った。

 彼のペニスから自分の体液を綺麗に拭き取った凉子は、急いで石像に付着している自分の指紋も拭き取った。マニキュアの除光液を含ませたハンカチで拭けば、指紋は確実に消えてしまう。
 時間がなかった。早くしないと大森がここに来てしまうのだ。
 そう慌てる凉子は、今まで大森に電話をかけていた彼の携帯電話を、凉子の首を絞めていた状態で硬直している彼の手に握らせた。彼が最後に掛けたこの携帯の履歴を、警察が調べれば彼と大森との接点は決定的になるのだ。
 続いて凉子は、バッグの中から先ほど大森のタクシーで盗んだ白い手袋を取り出した。右手に新品の手袋をはめ、その上に大森の白い手袋を被せた。その手で血塗られた包丁の柄を握った。そしてごしごしと擦りながら自分の指紋を消したのだった。
 最後に凉子は、彼のジャンパーの内ポケットから血まみれの百万円を取り出し、そして彼が吸っていた煙草の吸い殻を三本拾った。
 そまま円形のコンクリートを出た。噴水の入り口にあるミロのヴィーナスの足下に百万円を置くと、彼の血がたっぷりと染み込んだ大森の白い手袋を、いかにも焦った大森が落として行ったかのようにして雑草の茂みの中に無造作に捨てたのだった。

 急がなければならなかった。既にうっすらと夜が明け、空は青白くなりかけていた。
 山道を登って来る大森と出会したら全てが水の泡だった。そう思いながら慌てて雑草の茂みに潜り込もうとすると、ふと、背後から水の滴る音が聞こえた気がした。
 雑草の茂みの中に一歩踏み出した凉子は足を止めた。後ろを振り返る勇気はなく、息を殺して耳を澄ました。
 静まり返った森の奥から、どぼぼぼぼぼっという噴水の音がみるみるフェードインしてきた。それに合わせて凉子の心臓は跳ね上がり、一気に全身の毛穴から汗が吹き出した。
 凉子は恐る恐る振り返った。
 すると、水のない噴水から真っ赤な大量の血が噴き出していた。
 どぼどぼと激しい音を立てながら噴き出す血は、円形状の池の中にたぷたぷと溜まり、そこに包丁を顔に刺したままの彼の死体がぷかぷかと浮いていた。
 朝の冷たい空気が、一瞬にして血生臭い空気に変わっていた。
 そんな生温い風に吹かれながら、「ひっ」と息を詰まらせていた凉子を、赤黒い血の池に浮かぶ多くの石像達がジッと見ていた。
 無惨に破壊されていた石像達はいつしか生き生きと生き返り、優しい目で凉子を見つめながら微笑んでいたのだった。

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 山道を駆け下りて行くと、樹木の隙間から路上に止まっているタクシーのフォグランプが見えた。今まさに、そこから大森が出てきた瞬間だった。
 凉子は慌てて細い山道から逸れると、更に細い獣道に潜り込んだ。そのまま樹木に身を隠しながら、大森に見つからないように山を下りた。
 霧に包まれた道路に出ると、エンジンがかかったままのタクシーのフォグランプを目指して走った。タクシーの影に身を隠して山を見上げると、細い山道を登っていく大森の白いワイシャツの背中が見えた。

 凉子は後部ドアの取っ手にハンカチをあてながら、そっとドアを開けた。
 すると、ドアを開けるなり、突然車内から大音量のラジオが飛び出してきた。
「NHK深夜ラジオ便、四時台のこの時間は、東北大学の松代豊彦教授をゲストに向かえ、『絶滅の危機にある盆踊り大会』についてお話を伺っております……」
 そんなラジオの音に慌てた凉子は、急いで車内に潜り込みドアを閉めた。

 急いで紙袋の中から着替えを取り出した。血しぶきが飛び散った衣類を紙袋に押し込み、新しい服に着替えた。
 彼の血が点々と飛び散った健康サンダルを脱ぎ、サンダル底に付く足の裏の指紋を丁寧に拭き取ると、その健康サンダルをシートの下に隠した。警察がこのサンダルを発見すれば、足跡も血痕も一致する。
 そして彼が吸っていたタバコの吸い殻をポケットの中から取り出し、それを後部座席の灰皿の中に押し込んだ。この吸い殻の唾液を調べれば、彼がこのタクシーに乗っていたという重要な証拠になるのだ。

 車内では相変わらずくだらないラジオが響いていた。
「まぁ、盆踊りというのはですね、いわゆる、お盆に浮かれた馬鹿共が集団で踊りだすという、実に反社会的で、且つ、恥ずかしい催し物でございまして、公序良俗というものがまだ薄かった昭和四十五年頃ならともかく、現代社会においては」
 そんなどうでもいい話がまるでお経のように延々と続いていた。

 二つの物的証拠を車内に仕掛けた凉子は、辺りに誰もいない事を十分に確認した上、そっとタクシーから抜け出した。
 真っ白な霧に包まれた歩道は、必要以上のサスペンス効果を醸し出していた。まるで安物のVシネマのようにヒールの音が響いている。
 凉子は、いつ血相を抱えた大森が山道を走り降りて来るかとヒヤヒヤしながら歩調を早めた。必死に平然を装いながら上野駅方面に向かって歩き出したのだった。

 上野公園前の交差点に近づくにつれ交通量が多くなってきた。誰もいない歩道を歩くのはあまりにも目立ちすぎると思った凉子は、交差点の手前で再び上野公園に続く石段へと進路を変えた。
 長い石段を上りきると西郷隆盛の横顔が見えた。公衆便所の横に自販機があり、その明かりが公衆電話をぼんやり浮かび上がらせていた。
 当初の計画では上野駅の公衆電話から警察に電話する予定だった。しかし、思った以上に時間を要してしまっていたため、この公衆電話から電話しようと急遽決めた。
 凉子は財布の中から百円玉を取り出すと急いで公衆電話に向かって走り出した。この時の、このちょっとした計画の変更が後に激しく後悔する事になるとは、まさかこの時の凉子は夢にも思っていなかったのだった。

 携帯電話が普及したせいで、もはや町の公衆電話はほとんど見かけなくなっていた。
 ずっと放置されたままの公衆電話には大きな蜘蛛の巣が張られ、コインの投入口には、硬貨で傷つけられた『殺すぞ』という落書きが赤く錆びていた。
 蜘蛛の巣にぶら下がっている無数の羽虫の死骸を避けながら受話器を取り、投入口に百円玉を入れた。指紋が付かないように爪で110とプッシュを押した。電話はすぐに出た。「はい、こちら警視庁110番です」という、意外にも物静かなその声に、凉子は逆に圧倒されてしまったのだった。

「あのぅ……人が殺されてるのを見たのですが……」
 緊張しながら言うと、相手は全く動じない口調で「はい、人が殺されてるのを見たんですね」と繰り返した。
「場所はどこでしょう?」
「……上野公園です……」
「上野公園のどの辺でしょうか?」
「清水観音堂の近くです」
「はい、清水観音堂の近くですね……時間は何時頃ですか?」
 まるで宅配ピザを注文しているようだった。
 相手のその妙にゆっくりとした口調に凉子は苛立った。こうしている間に大森は現場を立ち去ってしまうかも知れないのだ。
「今ですよ。今見たばかりに決まってるじゃないですか!」
「はい、今ですね……では、その時の状況をできるだけ詳しく、落ち着いて教えていただけますか」
「そんな事より早く犯人を捕まえに行って下さい!」
「はい、大丈夫ですよ。もう警察官が現場に向かってますから心配せず、落ち着いてその時の状況をお教えて下さいね」
「……私、あそこをジョギングしてたんです。そしたら急に男の悲鳴が聞こえて……それでびっくりして足を止めたら、林の中からタクシーの運転手が怖い顔をして出てきたんです……」
「タクシーの運転手ですね……年齢はいくつくらいかわかりますか?」
「……高齢でした……」
「高齢ですね……それで、あなたは人が殺されるのを見たのでしょうか?」
 凉子は一瞬しまったと思った。噴水はフェンスの奥にあるため、そこに入らない限り殺人を目撃できるわけがないのだ。なのに凉子は殺人を見たと言ってしまった。もし、これが古畑任三郎だったらたちまちアウトだ。
「いえ、それは見ていませんけど……」
「殺人を見ていないという事は、殺された死体を見たとか、血の付いた凶器を見たという事でしょうか?」
「いえ、それも見てませんけど……とにかく怪しいタクシーの運転手を見たんです! あれは絶対に殺人事件だと思います! だからすぐに犯人を捕まえて下さい! 不忍池の弁天堂の入り口の前にタクシーが止まってました、ナンバーは見れなかったけど、タクシーにはひらがなで『おおもり』って書いてありました! おおもり個人タクシーです!」
「はい、わかりました。おおもり個人タクシーですね。大丈夫ですよ、今、警察官が現場に向かってますから落ち着いて下さいね……では、あなたのお名前と生年月日、そして住所を、ゆっくり落ち着いて教えて下さい」
「私はただジョギングしてただけですから、匿名の通報という事にしておいて下さい」
「うん、大丈夫ですよ。あなたが事件に巻き込まれたりする事は絶対にありませんからね、安心して下さいね。ただ、もう少し詳しい話を聞かせて欲しいものですからお名前と」
「いえ、困ります。私、ジョギングの途中ですし、この後仕事がありますから」
 そう言い捨てて凉子は受話器を下ろした。
 名前を言わなかった事はきっと怪しまれるとは思うが、しかし、携帯の履歴、血の付いた百万円、捨てられた白い手袋、足跡が残った健康サンダル、彼の唾液が付いた吸い殻、と、あれだけの物的証拠が残っていれば大森は間違いなく逮捕されるだろう。例え大森が本当の事を話したとしても、これだけ証拠が残っていれば信じてもらえるはずはないだろう。
 これは完璧な完全犯罪だ。
 そう自分に言い聞かせながらも、凉子は、警察は通報があったこの公衆電話を調べるかも知れないと思い、念のため受話器に付いた指紋を急いで拭き取ったのだった。
 
 受話器を満遍なく拭き終えると、不意に誰かが背後で「ふっ」と笑った。
 心臓をビクンっと跳ね上げながら慌てて振り返った。するとそこには、泥まみれのニッカズボンを履いた、見るからにホームレスといった薄汚い男が立っていた。
「……おめぇ……その格好でジョギングしてたんか?」
 男はボロボロに欠けた真っ黒な前歯を剥き出し、凉子をジッと睨みながらへらへらと笑った。
 電話の内容を聞かれていた! そう焦った凉子は、その男を無視して走り出した。
 霧が漂う上野公園の通路に凉子のヒールがカツコツと響いた。そのヒールの音を追うようにして、男の汚れたスニーカーがガツガツと続いた。
「おめぇアホだなぁ……受話器の指紋を拭き取ったって意味ねぇじゃねぇか」
 男は、走る凉子の横に並びながらそう言った。
 男のその言葉が引っかかった凉子は、キッと男を睨みながら「どうしてよ」と聞いた。
「だってそうじゃん。おめぇの指紋はよ、あの百円玉にもしっかりと付いてんだぜ」
 凉子は「はっ」と思い、思わずその場に立ち止まってしまった。
 二人の足音が止まった瞬間、明け方の森の中はシーンっと静まり返り、森の中を歩き回っている野生化した鶏の鳴き声だけが不気味に響いていた。
「へへへへ。今更戻っても無理だよ。もうあの百円玉を取り戻す事は絶対に不可能さ」
 凉子は、遠くに見える自販機の明かりを見つめながら、何が完全犯罪だと、自分の馬鹿さ加減にキュッと下唇を噛んだ。
「ま、あんたの身元がバレるのは時間の問題だね。俺ぁ、あの西郷さんの足下で暮らしてっからよく知ってるけどよ、ここ最近、あの公衆電話を使ったのはおめぇだけだよ。一ヶ月くらい前に東北弁の婆さんが使ってるとこ見たけどよ、あん時の婆さんの銭はもうとっくに回収されてるよ。って事ぁ、あの公衆電話の中にゃ、おめぇの指紋がたっぷりついた百円玉しか入ってねぇって事よ。だからおめぇの身元は時間の問題で発覚しちゃうだろうね」
 男はひひひひひっと不気味に笑いながらニッカポッカの股間をボリボリと掻いた。
 確かにこの男の言う通りだった。あの公衆電話は、もう随分と使われた形跡はなかった。いや、例えあの公衆電話の中に十万円分の硬貨があったとしても同じだろう。大森が事件を否認すれば、きっと警察は通報者を探し出す為にあの公衆電話に辿り着き、そこに溜まった硬貨から指紋を割り出すに違いなかった。
 指紋は非常にまずかった。実は凉子は三年前に警察に指紋を採られていたからだ。しかもその時、彼も一緒に指紋を採られているのだ。
 それは三年前、新宿公園のベンチで露出オナニーをさせられていた時の事だった。ギャラリーの中に酔った親父が一人いて、その親父が突然凉子に襲いかかってきた。ペニスを凉子の口に押し付けてきた親父に激怒した彼は、その親父を思い切り殴った。すると、口の中がざっくりと切れた親父は、血の唾液をピッピピッピと吐き出しながらすぐさま警察に通報したのだった。
 幸い、その親父が告訴しなかったため事件にはならなかったが、しかしその時、凉子と彼は新宿署に連行され一緒に指紋を採られた。
 もし、あの百円玉から凉子の指紋が検出されれば、彼と凉子の接点が浮き彫りにされる事は間違いないだろう。そして、ジョギングしていたなどという噓がバレ、どうしてあんな時間にあんな所にいたんだと追求され、結局、元彼が殺された事と、明け方の上野公園という不自然な場所と、そして大森の供述が決め手となり、完全犯罪は脆くも崩れてしまうのだろう。
 そう思った瞬間、凉子の背筋がブルっと震えた。
 きっと罪は重いだろう。元彼に恐喝されていたという事実は、多少の情状酌量の余地を与えてくれるかもしれないが、しかし、凉子は罪もない大森を犯人に仕立て上げようとしていたのだ。
 計画的犯行。
 法律の事など何も知らない凉子だったが、それが最も重い罪となる事くらいは知っていた 
 全てが水の泡だった。世界的トップモデルも、爆笑してもいいとも! も、六本木の高級マンションも、何もかもがおしまいだった。それどころか、元彼を殺害し、その罪を他人になすり付けようと企んだ計画的殺人は、死刑になる可能性だってあるのだ。
 (全て……終わった……)
 そう絶望の渦に巻かれた凉子の背後で、森に潜んでいた数匹の野生化した鶏が駆け抜けていった。
 一時期、ここに捨てられた鶏が異常繁殖し、凄まじい数の野生化した鶏が人間を襲うという事件が多発していた。しかしここ最近、野生化した鶏の数は一気に減り、そんな事故もなくなっていた。
 どうして鶏が激減したのか、その理由を教えてくれたのは武田だった。
「ホームレスが食っちまったからさ。あいつらってのは、ああ見えて結構使える奴らなんだぜ。ほら、困った時の乞食頼みって言うだろ」
 困った時の乞食頼み。武田のそんなデタラメなことわざがふと頭を過った。
 凉子は男を見た。とび職人のようなニッカポッカに真っ黒に汚れたTシャツを来た男は、妙に自信に満ちた目で凉子を見つめている。
 凉子は思い切って男に聞いた。
「……何か……いい方法はないかしら……」
 それは非常に危険な事だった。そんな事を男に聞けば、自分が殺人事件に関わっていると自ら公表しているようなものなのだ。
 しかし凉子は藁をもすがる思いだった。この場を逃げ切れるのなら、何だってするつもりだった。
 男は、欠けた前歯から舌の先をニュッと突き出しながら、不適にニヤリと笑った。
「あるよ……」
 男は、よれよれのTシャツから見える酒焼けした胸をごしごしと掻きながら言った。
「俺ぁ、フーテンやってた十六歳ん時から西郷さんの足下で暮らしてんだ、ノガミ(上野)で俺に出来ねぇ事ぁねぇよ」
 酒臭い息を吐きながらそう凉子の顔を覗き込んだ男は、「あの百円玉を取り戻せばいいんだろ」と不適に腕を組み、そして「簡単じゃねぇか」と笑った。
 凉子は、慌ててバッグの中から財布を取り出した。財布の中に入っていた八万円を鷲掴みに取り出すと、「今はこれだけしかないけど、もし本当に百円玉を取り出してくれたら三十万円払うわ」と、男の大きな手にくしゃくしゃの八万円を握らせた。
「百円が三十八万か……悪くねぇシノギだな……でもよ……できれば、それと一緒にあんたの体も頂きたいもんだねぇ……」
 男はいやらしい笑みを浮かべながら、凉子のミニスカートから伸びる脚を舐め回すように凝視した。
 そのあまりにも露骨な視線に凉子は一瞬眉をひそめた。
 しかし今は躊躇している暇はなかった。何としてでもあの百円玉を手に入れなければ取り返しのつかない事になってしまうのだ。
(この男は私の事を知らないんだ……だからもう二度と会う事もないんだ……だったら一度だけ……)
 そう思いながら凉子は決心した。
「いいわ。あの百円玉を取ってくれたら……あなたの言う通りにする。だから早く!」
 凉子の言葉に男は湿った唇をニヤリと歪ませた。
 男は「約束だぜ」と呟きながら公衆電話に向かってスタスタと歩き始めたのだった。

 遠くの方からパトカーのサイレンが近づいてくるのが聞こえた。上野駅方面、浅草方面、巣鴨方面と、四方八方から凄まじいサイレンの音が響いて来る。恐らく死体が発見されたのだろうと思った凉子は焦った。今にも制服を着た警察官達がドカドカと現れ、逆探知したあの公衆電話を取り囲んでしまうのではないかという焦燥感に駆られた。
「早く!」
 のんびり歩いている男の背中に小さく叫ぶと、男は歩きながら凉子に振り向いた。
 そして卑猥な笑みを浮かべながら、「世界のヒミコ様ともあろう人が狼狽えてんじゃねぇよ」と呟いた。
 なんと男は、凉子の素性を知っていたのだった……。

(つづく)

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