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限りなく公序良俗に9






 まるで地下鉄のホームに電車が入って来る時のような地響きが微かに聞こえた。
 いきなり、ガタン、ガタガタンっと響くと、それはガラガラガラガラっという音と共に遠離っていった。
 私は「はっ」と目が覚めた。
 いきなり目に飛び込んできた真新しいスプリンクラーは、ドス黒く汚れた古い天井に不釣合いだった。
 凄まじい汗をかいていた。
 鼓動が激しく、強烈に喉が乾いていた。
 廊下では仲居さん達が忙しく走り回る足音が行ったり来たりしていた。
 再びガタンガタンっという音が響いた。
 恐らくそれは朝食を乗せた台車なのだろう、桔梗の間に生卵を忘れてるわよ笹原さん! といった金切り声が飛び交い、みそ汁の濃厚な赤味噌の香りが、襖扉の入口の隙間からここまで漂ってきた。
 私は、そんな音と匂いを冷静に分析しながら、羽毛布団の柔らかい感触を足の指で確かめていた。

(あれは全て夢だったのだろうか……)

 ぐっしょりと汗ばんだ浴衣に不快感を覚えながらポツリと思った。
 その蒸し蒸しとした暑さに、一刻も早く羽毛の掛け布団を足で蹴飛ばしたい所だったが、しかし、あれがまだ夢だと確信できない以上、怖くて身動きできなかった。
 あのとき、確かに私はピアノ線で首を絞められていた。
 ピアノ線が首にピキピキと食い込む感触はカミソリで切り刻まれるように痛く、息ができない苦しみは、まるで頭部を圧縮パックされたような感じだった。
 そんな感覚を体がハッキリ覚えていた。
 そして最後の言葉。痛みも苦しみも消え、スーッと意識が薄れていく中、女がケラケラと笑いながら「この人、射精してるよ」といった言葉。
 それもハッキリと覚えている。
 それらを思い出した瞬間、あれは絶対に夢ではない、と背筋が凍った。
 が、しかし、私は今、間違いなく生きている。
 瞬きもできるし、こうして喉にごくりと唾を飲み込む事もできるのだ。

(これはいったいどういうことなんだ……)

 そう思いながら、身動きひとつせず天井のスプリンクラーをジッと見つめていると、いきなり入口の襖がザザザっと音を立てて開いた。
 私の目に、爪楊枝を銜えながらシーシーしている部長の姿が飛び込んできた。

「部長!」

 おもわず私は叫んだ。
 部長の姿を目にした瞬間、やっぱりあれは夢だったんだと確信した私は涙が出そうになるくらいの安心感に包まれ、おもわず羽毛の掛け布団を蹴飛ばしていた。

「部長!」

 もう一度そう叫びながら慌てて起き上がると、部長はジロッと私を一瞥しながら、「もう朝メシは終わったぞ」と吐き捨てた。
 部長は、私の布団をどかどかと踏みしめながら窓際へ進むと、応接セットのテーブルの上に置いてあったガラス製の灰皿の中に爪楊枝捨てた。
 先の湿った爪楊枝がカラランっと音を立てながら転がった。

「露天風呂で寝てしまうなんて、キミは何を考えてるんだね……」

 部長は振り向き様にそう言った。

「いったいキミはここに何をしに来てると思ってるんだ。これは、社運を掛けた大切な接待であって社員旅行じゃないんだよ……」

 部長は再び布団の上をどかどかと横切ると、押入れ兼用のクローゼットを乱暴に開けながら更にブツブツと説教を続けた。

「キミを発見したのが、幸いにも旅館の掃除係だったから良かったものの、こんな不祥事が先方に知れたらどうなると思ってるんだ。接待中に露天風呂で寝てしまうような、そんな出来の悪い社員ばかりがいる会社だと思われてしまうじゃないか。キミ一人の不祥事で社全体がそう思われたらどう責任を取るつもりなんだね」

 部長は乾いたタオルを肩に掛けながら振り向いた。

「これが社長に知れたらキミは即刻クビだよ。わかるかね、クビだぞクビ。明日からハローワークだよ、その歳でハローワークの行列に並ばなくちゃならないんだ、わかってるのかねキミ」

 部長は布団の上で項垂れている私を見下ろしながら、小さな唾をポツポツと飛ばした。
 そんな部長の足の親指に、黒く汚れた絆創膏が巻いてあるのが見えた。
 そんな絆創膏をジッと見つめながら私は思った。
 自分は一度殺され、そして生還したんだと。
 あの時あいつらは、私が完全に死んだと思ったのだ。だから私の死体をそのまま脱衣場に放置し、そのまま逃げたんだ。
 しかし私は死んでいなかった。そう簡単には死ななかった。
 首を絞められ、気絶したに過ぎなかったのだ。
 そして私は運良く旅館の掃除係に発見された。
 掃除係が露天風呂にやって来たのが五時頃だとすれば、確か私が殺されかかっていた時に時計が四つの鐘を鳴らしていたはずだから、私はあの薄ら淋しい脱衣場で一時間近く生死を彷徨っていた事になる。
 それを思うと背筋に寒気がゾクゾクと走った。
 もしあのまま死んでいたら、無念を残したままの私の霊魂は、あの薄ら淋しい脱衣小屋で何百年も彷徨い続けなければならなかったのだ。
 そう思うと、一瞬にして血の気が引いた。
 突然、顔を青ざめた私を見た部長は、その幼稚な説教が効いたと勘違いしたのか、「まぁいい。キミの処分は東京に戻ってからという事にしよう……」と、言葉を和らげた。
 そして項垂れたままの私に乾いたタオルを投げ、「とにかくキミも準備しなさい」と言った。

「準備といいますと……」

 首を傾けながら部長を見上げると、部長は酷く慌てながら、「皆さん、これから露天風呂に行くらしいから、キミもすぐに準備をしてロビーに来なさい」と吐き捨て、そのままどかどかと布団を踏みしめながら部屋を出て行った。


 軋む階段を下りて狭いロビーに行くと、まるでボヤでもあったかのように煙草の煙が充満していた。
 既に部長たちの姿はなくロビーは静まり返っていた。
 中庭に面した応接セットには、広げたままの朝日新聞と飲み干したアイスコーヒーが五つ並んでいた。
 朝日に照らされながらだらしなく放置されているそれらを見ていると、ふと銀座のルノアールの朝の風景を思い出し、無性に東京に帰りたくなった。

 カラカラと下駄を鳴らしながら玄関に飛び込んで来た仲居が、ロビーで立ちすくんでいる私を見て「あら!」と素っ頓狂な声を出した。

「皆さん、もう露天風呂に行かれましたよ」

 仲居は、あんたは接待役の平社員なんだから早く行かなきゃ叱られるわよ、っと言わんばかりの口調で私の顔を覗き込んだ。
 私は「ええ、わかってます」と気の無い返事をしながら、玄関に転がっている旅館名入りの下駄を履こうとすると、素早く仲居がその場にしゃがみ下駄を揃えてくれた。
 仲居を土間の上から見下ろした。
 三十代後半だろうか、着物に包まれた尻は異様に丸く、熟れた弾力性が漲っていた。
「あのぅ」と声を掛けると、仲居はしゃがんだまま「はい?」と私を見上げた。
 タヌキのような顔をしていた。
 着物の胸元に健康的な鎖骨が浮かんでいるのが見えた。
 セックスさせて下さい。
 いきなりそう言ったらこの中年女は何と言うだろう。
 そんな事を考えながら「いえ、なんでもないです……」と小さく首を振った私は、急いで下駄を履いた。

 小道に敷き詰められた砂利を、下駄でザクザクと鳴らしながら小さな坂道を下りた。
 深夜に見た貪よりとした風景とは違い、朝日が注ぐ坂道は、一面に咲いているアサガオが清々しかった。
 坂の向こうに脱衣小屋が見えて来た。
 その奥に見える、ほんわかと湯気が浮かんだ露天風呂からは、ゴマスリ部長の無理のある笑い声が聞こえて来た。
 脱衣場に入ると、足の指が下駄の上でギュッと縮んだ。
 もしかしたら、私はここで殺されていたかも知れないんだ。
 そう思うと、通夜の席で呆然としている妻や子供達の顔がリアルに浮かび、自然に膝がガクガクと震えた。

 床板をギシッと鳴らしながら脱衣場に上がった。
 今からつい数時間前、私はここで見知らぬ女と変態セックスをしていた。
 そして、その旦那から首を絞められ殺されそうになった。
 そう思いながら脱衣場を見渡した。
 黒ずんだ板壁には、甲府信用金庫のカレンダーが朝の爽やかな風に吹かれながら九月と十月を行ったり来たりしていた。
 そんなカレンダーの横に、『露天風呂使用の注意事項』と書かれたプレートが掲げてあった。
 それはこの町の温泉組合が作成したものらしく、日本語、英語、中国語に分かれて記されていた。
 その中に、『公序良俗を禁ずる』という言葉を見た。
 それは恐らく『公序良俗に反した行為を禁ずる』と書いてあったのであろうが、文の真ん中の『に反した行為』の部分が何者かによって十円玉か何かで削られてしまっている為、それは全くの対義文になってしまっていた。

「おい、何をやってるんだキミは、早く中野常務の背中を流しなさい」

 露天風呂の入口からヌッと現れた部長が、私を睨みながらそう言った。
 部長はタオルを頭に巻いていた。
 誰かの背中を洗っている最中なのか、泡だらけのタオルを手にしていた。
 そんな部長の股間で踞っている三センチ弱の包茎ペニスは、明らかに公序良俗に反していると思った。
 朝の清々しい風が脱衣場を通り過ぎていった。

(限りなく公序良俗に反した夜・完)



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