ストーカー男の幸福1
2012/11/17 Sat 04:25
「来た……」
マンションのバルコニーに踞っていた僕は、路地を見下ろしながら息を飲んだ。
午後二時十分。
奥さんは、いつもこの時間にこの路地を通った。
路地の先には、近所のお母さんたちが集う児童公園があった。
奥さんはいつもこの時間になると、その公園に一才二ヶ月になる信太くんを連れて行くのであった。
僕は、既に準備していた双眼鏡を手にした。
左手に持った双眼鏡を覗き込み、右手で黒いビニール袋の中を漁った。
このビニール袋の中には、奥さんが捨てたゴミ袋の中から見つけ出した『お宝』が詰まっていた。
それは、伝線したストッキングや、花粉予防マスク、そして使用済みのコンドームや履き古したショーツなど、とってもレアなお宝ばかりだった。
その中から、今日は青いショーツを取り出した。
残念な事に、ここにあるショーツの全ては洗濯済みのモノばかりだったが、しかし、かなり履き古したそのクロッチには、微かにシミの跡が付いているモノもあった。
そんな洗濯洗剤の香りが染み付いたクロッチを鼻に押し付けながら、三階のバルコニーから双眼鏡を覗く僕は、奥さんのそのあまりの美しさに深い溜息をついたのだった。
仲居美奈子、二十七才。
東京都豊島区南大塚三丁目、GKP南大塚レジデンス604号室。
僕は奥さんの携帯番号もメールアドレスも知っていた。
月に二回、東新宿のエステに通っている事も、旦那さんが新橋のキャバ嬢に熱を上げている事も、そして信太くんの気管支が弱い事も全て知っていた。
そう、僕は奥さんのストーカーなのである。
しかし、ストーカーだからといって何をするわけでもない。
いつもこうして、マンションの下の路地を通る奥さんを双眼鏡で眺めては、自慰に耽っているだけである。
つまり僕は、奥さんを遠くから眺めているだけでいいと言う、人畜無害なストーカーなのだ。
もちろん、奥さんと知り合いになりたいとか、できれば友達になりたいといった気持ちはある。
いや、はっきりいって奥さんの体に触れたいし、奥さんとセックスだってしてみたい。
しかし、僕は僕という人間を良く知っている。
僕は女の人と仲良くなれるようなタイプではないのだ。
三十二才で未だ無職な僕は、未だ素人童貞だった。
デブでハゲで背も低く口が異様に臭かった。
学生時代に付けられたあだ名は『イカ納豆』で、その名の由来は仮性包茎のペニスがイカ臭くて、靴下が納豆臭いからだった。
ファッションは常にユニクロのアイボリー系を好み、顔は光浦靖子に似ているとよく言われた。
女子校に忍び込んだ不法侵入罪と自転車泥棒の前科二犯が原因で、創価学会の熱心な信者である両親から絶縁された。
生活保護が打ち切られる事と、益々広がっていく水虫と、いつ起こるかわからない関東大震災に日々脅かされている在日韓国人。
それが僕だ。
自分自身でも気持ちの悪い男だと思うくらいの気持ち悪い男なのだ。
そんな僕が、あの綺麗な奥さんと友達になれたり、セックスできたりなんて、天地がひっくり返ったってあり得るわけがない。
しかし、そう思っていた矢先、とんでもない事実が発覚した。
それは、僕があの奥さんとセックスできるかもしれないという、実にとんでもない事実だった。
その日、『なかのまち商店街』に出掛けた僕は、いつもの古本屋『真砂堂』で、全二十五巻がズラリと並んだ『のたり松太郎』の中から六巻だけ万引きした。
古本屋を出ると、シャッターだらけの鄙びた商店街をぶらりと一周し、また真砂堂へ戻った。
先程万引きした『のたり松太郎』の六巻をレジにポンっと置くと、雛鳥のような顔をした爺さんが針金のような眼鏡を押し上げながら僕を見て「毎度」と入歯をモゴモゴさせた。
「これ、売りたいんだけど」
そう言うと、爺さんは大きなサンダルをザラザラと引きずりながらコミックのコーナーへと行き、ズラリと並んだ『のたり松太郎』に目をやった。
「あらららら……丁度、六巻だけ抜けてるわ……」
そうヘナヘナと笑いながらレジに戻って来た爺さんは、「助かりましたよ」と感謝しながら、それを五百円で買い取ってくれたのだった。
その足で『富士そば』へ向かった。三百六十円の『大かけ』をぺろりと平らげ、爪楊枝をごっそりと盗んで店を出ると、いきなり奥さんと出会した。
相変わらず奥さんは綺麗だった。スラリと伸びた細く長い脚とキュッと締ったウェスト。そしてプリプリした大きな尻と、歩く度にゆっさゆっさと揺れる大きな胸。
そんな魅力的な奥さんの体に引き寄せられた僕は、迷う事なく奥さんを尾行した。
白いジーンズに包まれたパツパツの大きな尻を眺めながら尾行して行くと、いつしか大塚駅に来ていた。
駅の前で立ち止まった奥さんは、トートバックの中から携帯を取り出し、どこかに電話をし始めた。
僕は人待ち顔のふりをして奥さんの背後にジワリジワリと近付き、携帯に話し掛ける奥さんに耳を傾けた。
「……そうなのよ。ほら木村さんって腰が悪いでしょ、だからどうしても洗い場を手伝って欲しいって店長が頼むのよ……」
信号待ちしていたタクシーが走り去って行く音に混じり、微かにその会話が聞き取れた。
どうやら、奥さんはこれから何かのバイトに行くようだった。
「うん。私も店長にはそう言ったんだけどね、その分、ボーナスを出すからなんとか残業して欲しいって言うのよね……だから、まぁ、二時間くらいだったらいいかなぁっと思って、あなたに電話してみたんだけど……」
どうやら電話の相手は旦那らしい。木村とかいう腰痛持ちがポンコツな為、店長が奥さんに残業を頼み、それを奥さんが旦那に頼んでいるという内容のようだった。
「うん、信太の事は義母さんにお願いして来たから大丈夫。うん、うん、わかった。じゃあ十時には帰れると思うから、うん、うん、ごめんね、は〜い」
奥さんはそう頷きながら携帯をパタンっと閉じると、それを無造作にトートバッグの中に放り込みながら駅に向かって歩き出した。
奥さんの事を色々と調べているつもりだったが、奥さんがバイトをしている事は知らなかった。
これは絶対に調査しなければと思った。電話の内容からしてバイト先は恐らく飲食店だ。という事は、その店に客として行けば、憧れの奥さんと会話が出来るのだ。だから絶対にバイト先を知っておく必要があった。
幸いポケットの中には百四十円残っており、キップは買えた。
僕は奥さんを見失わぬよう、必死に奥さんの細い後ろ姿を目で追いながら、急いで自販機の中にコインを投入したのだった。
時刻は四時半を少し過ぎた頃だった。
この時間の電車は空いており、僕は座席に腰を下ろしながらのんびりと奥さんを観察する事が出来た。
しかし、座席に座ったと思ったら、奥さんはすぐに立ち上がった。
奥さんは池袋で下りるらしく、電車がブレーキをキキキキッと軋ませる中をとぼとぼと出口に向かい、ポールに捕まりながら池袋駅を眺めていた。
扉が開くと、奥さんはカモシカがピョンっと飛び跳ねるようにしてホームに出た。その出かたが異様に可愛く思え、僕も真似してピョンっと飛びながらホームに出てみると、運動不足の膝はいきなりガクンっと折れ、電車に乗込もうとしていた女子高生達が、そんな僕を見てキャハハハ! と奇声をあげた。
池袋の西口に出ると、奥さんは馴れた足取りでケンタッキーの横の『西一番街』のゲートを潜り、既にネオンがチカチカと灯る雑多街へと入って行った。
恐らく居酒屋だろう。そう思いながら後を付けた。
奥さんは細い路地をいくつも通り抜け、『世界の山ちゃん』と書かれた不気味な似顔絵の看板がある交差点に出ると、その数軒隣りの何の変哲もない薄汚れた雑居ビルの中に入って行った。
それはどう見ても飲食店をやっているようなビルではなかった。
僕は、見失ってはいけないと思い、慌ててビルの中に入った。
狭いエントラスには、奥さんが乗ったと思われるエレベーターの締まる音がガコガコと響いていた。
しまった、と思いながらもエレベーターの表示板を見つめ、どこで止まるかを確かめた。
エレベーターは四階で止まった。
奥さんの後を追おうと、エレベーターのボタンを慌てて押した。
すると、そこで初めてそれに気が付いた。
エレベーターの横に電気の消えた看板がポツンと置いてあり、その看板には大きく『4F』と表示されていたのだ。
僕は乾いた喉にゴクリと唾を飲み込みながらその看板を見つめた。
握っていた拳がジンワリと汗ばみ、なぜか無性にヘラヘラと笑みがこぼれた。
そんな僕が見つめる看板は、ピンク色を背景に、丸字の白抜きで『マッサージ倶楽部・西口店』と書かれていた。
どう考えても、ここに洗い場は必要ない……
(2話へつづく)
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