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裏切り妻(前編)

2012/04/14 Sat 01:22

    裏切り妻





—1—

 私の妻は正直言って綺麗だった。
 まだ出産経験のない二十七才のムチムチしたその身体は、胸も尻も見事な肉付きで、そのくせウェストがキュッと締った弾力性のあるスレンダーボディーだった。
 身体も素晴らしいが、それに増して顔が良かった。少し垂れ目ではあるが見事に均等の取れたその美形は、ツンっとすませば綺麗に見えニコッと微笑めば可愛くも見える。
 そんな出来過ぎた妻だったが、しかし問題はその性格だった。そう、何を隠そう私の妻は、とんでもない裏切り者だったのである……。

 美佐と結婚して、かれこれ二年が過ぎようとしていた。美佐と私は同じ保険会社に務めており、いわゆる社内結婚というやつだった。
 結婚後、半年ほどして会社を辞めた美佐は専業主婦となった。その直後、嫌な噂が社内に流れ始めた。
 その噂と言うのは、美佐は私と結婚する前、専務と不倫していたというものだった。
 まぁ、確かに美佐は美しい女だ。美しい女だからこそ、妬まれ僻まれある事無い事噂を立てられるという宿命を背負っているのだ。
 だから私は、そんな『よくある噂』には耳も傾けず、敢えて美佐に問い質す事すらしなかったのだが、しかし、そんな『よくある噂』はそれだけではなかった。
 専務の愛人だったという噂が冷め止まないうちに出てきた噂は、美佐の『枕営業』だった。外交員時代の美佐の保険契約のほとんどが、身体を犠牲にして取ってきた契約だったと噂され始めたのである。
 しかも『よくある噂』はそれだけに止まらなかった。

 それは美佐が第二営業部の笹尾たち数人とカラオケボックスへ行き、そこで酔った美佐が笹尾たち全員と乱交プレイをしたというとんでもない噂だった。しかもその噂は、なんと私と結婚した後のつい最近の出来事だと噂されているのだ。
 この噂にはさすがの私も面を喰らった。専務の愛人だったとか枕営業をしていたなどという噂は、セールスマン業界では『よくある噂』であり、そんな噂をいちいち信用する私ではなかったが、しかし、噂の相手が笹尾となるとちょっと厄介だった。
 と言うのは、私と結婚する前の美佐は笹尾と関係があると噂されていたからである。しかも笹尾というのは私の直属の部下なのである。

 その噂を耳にした私は、今後、笹尾と気まずくならないようにと、その晩、さっそく笹尾を飲みに誘った。
 私は笹尾を信用していた。美佐と婚約した時、私は笹尾に美佐との関係を問い質した事があるのだが、笹尾はそんな私の質問に一笑した。そして、美佐との関係をきっぱりと否定した為、私は笹尾という優秀な部下を信用したのだ。

 その晩の居酒屋でも、案の定、笹尾はそんな噂を笑い飛ばした。
 そして挙げ句には、「そんな事、あるわけないじゃないですか……先輩は余程僕を信用してくれてないんですね……」と今にも泣きそうな顔でどっぷりと落ち込む始末だった。
 最初から、その噂が悪質なデマだとはわかっていた。が、しかし笹尾本人からその言葉を聞くと、私の心の隅に密かに引っ掛かっていたモヤモヤが気持ち良く消えて無くなった。
 気分が晴れた私はそんな笹尾に平謝りに謝った。
「すまん笹尾。キミを疑ったわけじゃないが、そんな噂が出回っている以上、キミとの関係にわだかまりを作りたくないと思って聞いたまでなんだ」と、ひたすら謝罪していると、いつしか笹尾も苦笑し始め、私が勧めるビールにも笑顔でグラスを差し出してくれるようになったのだった。

 しかし、そんな笹尾との一件があった数日後、なにやら暗雲立ち込める一通のメールが私の社内パソコンに届いた。
 それは『捨てアド』と呼ばれる、送り主を特定できない無料メールから送られて来たメールだった。当然、送り主は匿名だが、しかし、私の社内PCのアドレスを知っている事や、その文の内容からして、同じ社の者には間違いなかった。

《相葉さんは、奥さんの美佐さんが浮気している事を御存知でしょうか?美佐さんは昔付き合っていた笹尾と今も付き合っています。二人はあなたの目を盗んでヤリまくっています。美佐さんは変態です。笹尾だけでなく、第二営業部の男達ともヤリまくっています》

 短い文だったが、『ヤリまくる』という文字が妙に生々しく、再び私を不安のどん底に叩き落とした。
 いったいこのメールの送り主は何が目的なんだ? 私と笹尾の仲を引き裂き、笹尾のポストを狙っているのか? それとも私をノイローゼにして私の足を引っ張ろうとしているのだろうか?
 私はあらゆる憶測を巡らせた。あくまでも美佐は無実だという設定であれこれと考えた。
 このメールの事は笹尾にも美佐にも話さなかった。いつまでもイジイジと悩んでいる情けない男だと思われたくなくて、二人には話したくなかったのだ。

 しかし、そんなメールはそれからも頻繁に届くようになった。
 例の噂にある『カラオケボックス』の店名と、彼らが利用したと噂される日時までもが詳しく記されており、『そこの店員に問い質してみて下さい』とまで書かれていた。
 それら不快感をもたらすメールには悉く無視を決め込み、今後、二度とそのメールを開かないようにしようと心に決めた私だったが、しかしある時、そんなメールに一枚の画像が添付されて来た。
 その画像をついつい開いてしまった私は、いきなり脳天を金属バッドで叩かれたような激しい衝撃を受け、愕然としてしまったのだった。

 白いワイシャツを来たサラリーマン風の男三人が、ズボンのチャックからペニスを捻り出した状態で一人の女の服を脱がしていた。
 その女。俯いている為はっきりと顔は見えないが、その髪の長さやスタイルからして、確かにどことなく美佐に似ているような気がした。乳首が見えていればそれが美佐かどうかを判明できた。美佐の乳首には特徴があり、旦那である私が見れば一目瞭然なのだが、しかし肝心の乳首は男に揉まれ隠れている為、それを確認する事は出来なかった。

 そんな写真の女は、なにやら嬉しそうに微笑んでいるように見えた。そんな下品で卑猥で淫らな女を凝視しながら、(違う! これは美佐ではない!)と何度も何度も叫び、次々に脳に溢れてくる不安材料を悉く否定してやった。
 しかし、そんな事で私の心が晴れるわけが無かった。確かにこの女が美佐に見えない事はないのだ。美佐だと思って見てみればこの写真の女は誰が見ても美佐本人なのである……。

 凄まじい鬱に襲われた。私には、元々、躁鬱病の気が少なからずあった。私の祖父もそして父も、みんな軽い鬱病だったから遺伝していてもおかしくはないのだ……。


—2—


 五時になると社員たちが次々に帰り支度を始めた。
 しかし私は身動きひとつせずデスクに座ったままジッと一点ばかりを見つめている。今日は火曜日だった。毎週火曜日は私の夜番当直の日だった。

 夜番当直というのは、簡単に言えば緊急時の際の連絡係の事である。顧客の事件や自殺や交通事故といった情報をいち早く担当者に伝える二十四時間体勢のキツい業務であり、小さな保険会社なんかではよくあるアナログな夜勤だった。
 そんな夜番当直は三十を過ぎた身体には辛かった。まして、今の私の精神状態は、あの一枚の画像によってどっぷりと落ち込んでいるのである。
 私を落ち込ませている張本人の笹尾が、私の背後にそっと立った。
「先輩、今夜は夜番でしょ」
 笹尾はそう言いながら私のデスクの上に缶コーヒーを置き、「差し入れです」と笑った。
 素直な青年の笑顔だった。こんな好青年が上司の妻を寝取るなど誰が信用するであろう。
「いつもすまんな……」
 私は引き攣った笑顔でそう呟くと、缶コーヒーを握りしめ、その温かさを手の平に感じた。
「今時、保険屋で夜番当直なんてやってるのウチだけらしいっすよ……」
 笹尾はそう苦い笑いしながらスーツの内ポケットから煙草を取り出した。
 そして「夜番当直だったらわざわざ喫煙所に行かなくても吸い放題でしょ」と笑いながら、そのラークマイルドを箱ごと私のデスクに置いた。
 私はそんなラークマイルドをチラッと横目で見つめ、(ガキの癖にイイ煙草吸いやがって)っと忌々しく思いながら、いっそのこと例の画像をPCの画面一杯に映し出し、それを笹尾に見せつけてみようかという衝動に駆られた。
 しかし、そうは思ってみてもそんな勇気が今の私にあるわけない。今の私は、まさに廃人同然の腑抜けになってしまっているのだ。
「それじゃ、お先に失礼します」と、笹尾が私の背中にペコリと頭を下げた。
 既に静まり返っていたオフィスに笹尾の足音が響いた。私は重たい頭部をゆっくりとオフィスのドアに向けると、笹尾の後ろ姿に向かって「ありがとう」と呟いた。笹尾はそんな私の声が聞こえなかったのか、後を振り向く事も無くそのままオフィスを出て行ったのであった。

 それからずっと例の画像を眺めていた。一人ポツンとこんな画像を眺めていると、よからぬ妄想ばかりが頭の中を駆け巡った。それによってどっぷりと鬱にはまった私は、いつしか徹底的に美佐を疑っていた。

 気が付くと私は泣いていた。知らないうちに溢れた涙が頬を伝い、それがデスクの上にポタポタと垂れては小さな水溜まりを作っていた。
 ハァァァァァ……と鬱特有の深い溜息を腹の底から吐き出す。ゆっくりと天井を仰ぎながら、今朝の美佐を思い出してみる。
 今朝の朝食は和食だった。いつもの朝食はパンと目玉焼きなのだが、私が夜勤の火曜日は弁当を作らなくてはならない為、その日だけは弁当のおかずの残り物で間に合わせた和食なのだ。
 朝のキッチンで冷凍のエビフライを揚げていた美佐。私が寝ぼけ眼で寝室から出てくると、つまみ食いをしていたエビフライの尾を窄めた唇から突き出しながら、恥ずかしそうにクスッと笑っていた。
 そんな美佐が今の生活に不満があるはずが無い。金銭的にもセックスにも、美佐が私に不満を持つなど考えられないのだ。そんな美佐がわざわざ笹尾などという私の部下と浮気をするなんてよくよく考えれば実に非現実的だ。どうしてよりにもよってそんな危ない橋を渡ってまでも笹尾と浮気をしなくてはならないのだ、それがバレれば美佐はたちまちこの幸せな生活を全て失うことになるではないか。
(だからやっぱりこの画像の女は美佐ではない!)
 そう心で叫びながらカッ! と目を見開いた。無数の空気穴がポツポツと開いた虫食い天井が、爛々と輝く蛍光灯に反射しては私の眼に鋭く降り掛かった。
 しかし、その天井の白さが、不意に画像の女の真っ白な尻と重なった。丸くて白くてムチムチとした女の尻がモヤモヤと白い天井に浮かび上がって来た。
 そしていつしかその白い尻は、昨夜激しく攻め立てた美佐の白い尻へと移り変わった。その瞬間、私はおもわず声を出して泣き出した。涙と鼻水が次々に溢れ出し、ヒクヒクと震える唇の中に次々と雪崩れ込んでいく。それはまるで『777』が出た時のパチンコ台のようだった。

 私はウーウーと情けない声で唸りながら、再びマウスを握った。いつの間にかスリープになっていたPCがボワワワワンっと起動し始め、画面には例の画像がボンヤリと浮かび上がって来た。
 やはり、どう考えてもその女は美佐としか考えられなかった。それに、裸の女を囲む男達もだんだん第二営業部の若造たちに思えてならなかった。
(ヤったのか? 美佐は俺を裏切り、この若者たちとズボズボとヤリまくったのか?)
 そう絶望しながら再びわっと泣き出すと、いつの間にかズボンの中でペニスが固くなっているのに気付いた。
 突然ムラッと熱い血が逆流した私は、
(ヤったんだろ、若い男達に精力的に攻めまくられて、おまえも卑猥な声で喘ぎながら悶えていたんだろ)
 と、その光景をリアルに想像しながら、震える手でズボンのチャックを開けた。
 そして、美佐のベッドの上での仕草や息づかい、そして感じ始めるといつも叫ぶ、『もっと! もっといっぱい動かして!』という口癖を思い出しながら、既に我慢汁でネトネトに糸を引くペニスを激しく上下にしごき始めた。
 今までにない不思議な興奮が私を包み込んでいた。この画像の女が美佐かも知れないと思えば、たちまち全身の力が抜けては絶望のどん底に叩き落とされるというのに、しかしそんな絶望に追い込まれながらも、若い男たちに羽交い締めにされては、『もっといっぱい動かして!』と叫ぶ美佐に異様な興奮を覚えていたのだった。
 ペニスをしごく度に、まるでテレビのチャンネルが変わるように様々な妄想シーンが私の脳裏を駆け巡った。
 私のペニスよりも遥かに大きくて遥かに固いペニスを、いつもよりも淫乱に音立てながらしゃぶりまくる美佐。そんな美佐の四つん這いになった小さな尻に、激しく腰をパンパンと打ち付ける笹尾が、『ほら、ほら、先輩のチンポより全然気持ちいいだろ』と囁きながら不敵に笑う。すると美佐は大きなペニスを口一杯に頬張りながら、まるでベソを掻く少女のような仕草で『うん、うん』と切ない唸り声をあげる……。

 そんな我妻の残酷なシーンを悶々と想像しながら、号泣する私はPCの画面に向かってひたすらペニスをシゴきまくっていた。
 不意に、今朝の美佐の声が頭の中でリアルに響いた。
『ちゃんと野菜も食べてね』
 そう微笑みながら、玄関先で私に弁当を手渡す美佐の背後には、真っ赤な顔をした笹尾が蠢いていた。笹尾は背後から美佐を抱きしめ、そして赤黒い舌を突き出してはキスを求めながら、『イクよ! 中で出すよ!』と苦しそうに叫んだ。
 その瞬間、PCに向かってシゴいていた私のペニスから、しゅぷしゅぷしゅぷっという音を立てながら大量の精液が飛び出した。
 画面に映る女の白い尻に飛び散った濃厚な精液は、まるでナメクジのように画面の上をトロトロと移動し、そのままデスクの上にポトリと落ちたのだった。

 そんな精液をハァハァと見つめる私の目に、画面の端に映るデジタル時計の数字が紛れ込んできた。
 時刻は午前0時を少し過ぎていた。
 精液を出し尽くした私は今まで以上の鬱に襲われ、絶望と同時に陰茎から飛び出したその白い欲望に凄まじい嫌悪感を覚えながら心をズタズタに切り刻まれた。
(もうダメだ……)
 腹の底からそう思った私は、いつも退社する時と同じようにさっさと身支度を始めた。
(こんな精神状態で夜番なんかしていたら、あの窓から飛び降りかねない……)
 窓から見える黄色と黒のプロミスの看板を見つめながらそう思うと、私はそのまま夜番を無断放棄して会社を飛び出したのだった。

 会社の前の歩道に出ると、ビルとビルの隙間をすり抜ける都会の生温い夜風が私を包み込んだ。
 終電には間に合わない。そう思いながらポケットを弄り財布を取り出す。
 歩道の端に植えられた柳の枝が、財布の中を確かめる私のうなじを卑猥にくすぐった。財布の中には一万八千円入っていた。タクシーだとギリギリの金額だった。
 勿体無い、と思いながらも、交通料の少なくなった深夜の大通りを覗き込んではタクシーを探した。

 確かに勿体無いかも知れなかった。それに夜番を無断放棄したとなれば、会社からそれなりの制裁も受けるだろう。しかし、タクシー代よりも会社の制裁よりも、最愛の妻に裏切られる事のほうがどれだけ辛い事か。
 私は一刻も早く家に帰り、美佐本人から真相を確かめたかった。すぐにでもそれを確かめなければ、このままでは私の頭は本当に壊れてしまうと思ったからだ。
 吉牛のオレンジ色に照らされた交差点から一台のタクシーが右折して来るのが見えた。私はそんなタクシーに向かって急いで手を振った。タクシーは素早くハザードランプを点滅させると、ゆっくりと私の前で停車した。
 タクシーのドアが開くと同時に、妻の胸の中に飛び込むような心境で後部座席に滑り込んだ私は、やはり心のどこかで妻を信じているのだろう、座席に凭れながらも不思議な安心感に包まれていた。そう、この時の私は、これから史上最悪な妻の裏切り行為を目撃するなんて夢にも思っていなかったのであった……


—3—


 タクシーメーターが一万六千七百円を表示していた。慌てて財布を取り出しながら「ここでいいです」と告げると、眠たそうな運転手は「あっ、はい」と言いながら、寝静まった住宅街にハザードの音をカチカチと音立てたのだった。
 今思えば、この時自宅の前で降りてさえいれば、妻はタクシーの止まる音に気付いたであろう。そうすれば、私はあのような悲惨で残酷なシーンを目撃しなくてもよかったはずだった。それを思うと今更ながらタクシーを途中で降りた事が非常に悔まれる。

 時刻は既に二時を過ぎていた。バス停のある小さな坂道をポツポツと歩きながら、さすがに美佐はもう寝ているだろうな、と思い、それでも妻を叩き起こして真相を確かめるべきかどうするかを考えた。
 しかし、今聞かなければ、タクシー代と夜番放棄というリスクを背負ってまで帰って来た意味がなかった。だから何としても今夜中に白黒はっきりさせておかなければならないと、そう意志を固めながら小さな坂を上りきったのだった。

 小坂の上から寝静まった新興住宅街を見下ろした。思えば、この町に住みたいと言い出したのは美佐だった。
 私にすれば、会社から随分離れているこの町にマイホームを建てるのはいささか問題だったが、しかしどうしてもここがいいと美佐が言うため、この町に決めた。
 しかし、今こうして小坂の上から改めて我が家の屋根を眺めると、この町にして良かったなぁとふと思った。自然に囲まれた静かな町。子供を育てるには最高の環境かも知れない。
 坂を下りながら『売り地』の看板が立つ空き地を眺めた。将来、ここで子供とキャッチボールができるぞ、と思うと、その土地がずっと売れなければいいのにと思った。
 そんな事をニヤニヤ笑いながら考え歩く私からは、いつしか鬱が消えていたのだった。

 自宅が近付いてくると、歩きながらカバンの中を弄った。恐らく妻は寝ているだろうから、自分で鍵を開けようとキーケースを探したのだ。
 しかし、門扉の前で足を止めた私は、周囲の寝静まった家に比べて、なぜか我が家だけが妙に温かい雰囲気が漂っている事にふと気付いた。
 その温かさの原因が、我が家の庭だけにリビングからの照明がぼんやりと漏れているせいだからだと気付いた私は、なにやら嫌な予感が背筋をゾワゾワと這い上がって来た。

(まさか……笹尾が来てるのか……)

 合鍵を強く握りしめた。まさかそんな事があるはずはない。それに、例え妻が笹尾と浮気をしていたとしても、さすがに自宅など使わないだろう。
 私は首を振りながら、頭の中に次々に溢れてくる嫌な予感を必死に振り払った。
 恐る恐る門扉を開けた。絶対にそんなはずはない、と思いながらも、何故か玄関へ向かう足は忍び足になっていた。
(浮気する者が、わざわざ危ない橋を渡って自宅を使う意味がないじゃないか……)
 そう自分に言い聞かせながら、芝生に敷いた石畳を進んだ。リビングに引かれたレースのカーテンから爛々と光が漏れ、夜露に濡れた庭の芝生をしっとりと照らしていた。
(……しかし、だとしたら美佐はこんな時間までいったい何をしているんだろう……)
 そう首を傾げながら合鍵を玄関のドアに差し込もうとすると、不意にリビングから笑い声が聞こえて来た。
 一瞬、私の心臓がピタリと止まった。全身は合鍵を持ったままの体勢で固まってしまい、かろうじて目玉だけがビクビクと震えているのがわかった。
(……今の笑い声は……確かに男の笑い声だった……)
 固まったままそう呟くと、一気に全身の毛穴から汗が噴き出した。全身の力がドッと抜け、くらくらとした目眩が私の脳を襲った。
 玄関のレンガタイルに跪きそうになるのを必死に堪えながら、そのままジッと耳を澄ました。
 遠くの方で救急車のサイレンの音が響いていた。その音に混じり、微かにテレビの音が聞こえて来た。
 確かに人の気配がした。美佐だけではなく、もう一人誰かがいる気配を私は感じ取っていた。

 大きく息を吸い込んだ。会社を出た時に感じた銀座の生温い夜風とは違う、夜露に濡れた清々しい緑の香りが私の鼻孔をくすぐった。
 私は腹を括った。これは何を隠そう紛れもなく妻の浮気であり、今更、夢だ幻だと女々しく騒いでみた所で始まるわけでもなく、ここはひとつ性根を入れてこの悲惨な現実を見据えてやろうではないかと腹を決めたのだ。
 そのまま身を屈めながら庭に忍び込んだ。不意にゴホン!という咳がリビングから聞こえた。それは明らかに男の咳であり、無意識に私の口からハァハァと熱い息が漏れた。
 そんな熱い息を右手で塞ぎながら、リビングの窓の横にゆっくりと屈んだ。震度八でもビクともしないというヘキスイハウス御自慢の外壁に頬を押し付け、ジワリジワリと窓に向けて顔を移動させる。
 奥歯をギギギッと強く噛み締める。身体を小刻みに震わせながら、夜露に湿った石目調の外壁タイルにズリズリと頬を擦り付けていくと、右の頬にサッシの枠が当たった。
 ハァハァハァハァと溢れる息を必死に堪えながら、レースのカーテンの微かな隙間を覗き込む。すると、突然真っ白な肉の塊がウネウネと蠢いているのが見えた。

 一瞬、それがなんだかわからなかった。が、しかし、その真ん中で卑猥に動いている指を目にした瞬間、それが妻の尻だと言う事がわかった。
 心臓が二回転した。激しい怒りが身体中を熱く燃え滾らせた。妻のこの卑猥な姿を他人の男が見ていると考えると、鼻血が出そうなくらいに顔がカッカと熱く火照って来た。
 どうやら男はリビングの奥にあるソファーに座っているらしく、その姿はここからは見る事ができなかった。
 奥のソファーから男が何かを喋った。その言葉は聞き取れなかったが、男がその言葉を発すると同時に股間を弄る妻の指がいきなり速度を速めた。

「ねぇ……オチンチン舐めさせて……」

 私は耳を疑った。その声は確かに妻の声だった。だったが、しかしその声は、『この町に住みたい』と柔らかく微笑んだり、『ちゃんと野菜も食べてね』と弁当を手渡しながら優しく微笑む妻とは全くの別人のド汚い淫乱女の腐れ声だった。

(美佐……)

 私の熱く火照る頬に涙がドッと流れた。

「とりあえずイけよ。イったらその後じっくりチンポを舐めさせてやるよ……」

 男の声が初めて聞き取れた。その男の声はどこか聞き覚えのある声だった。
 そんな男の命令に従うように、妻の中指と薬指が丸い尻の中心にヌポヌポと沈んで行った。

「んんんんん……」

 妻が呻いた。尻と太ももがピクピクと動いていた。
 そんな妻の呻き声を聞きながら、私は再び真っ黒な鬱の中に吸い込まれて行ったのだった。

(つづく)

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