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巡査部長の最後の夏

2010/08/15 Sun 09:11

海水浴場6

《解説》
定年まで残す所24時間と迫った山下巡査部長。
この忌々しい海岸特設交番ともこれでお別れだ。
そんな山下部長の警官人生最後の日に、懲りない面々が勢揃い。
愛と笑いとエロスと人情が入り交じった短編オムニバス最終話。






山下が自転車パトロールから帰って来ると、海岸交番は水着の若者達で溢れかえっていた。
その若者達は派手な水着にチャラチャラのアクセサリー、髪は金髪で肌は土人のように真っ黒に焼けていた。
「ふざけやがって、こいつアケミの尻を堂々と写メで撮ってたんだぜ」
新宿歌舞伎町の路上にいそうなホストかぶれのチャラチャラ男がそう叫ぶと、若者達は口々に「ふざけんなよ」、「キモいんだよ」、「オタク野郎」と1人の親父を罵った。
若者達に罵られている親父。メタボな体に似合わず妙にパツパツのトランクスパンツを履き、顔中には赤いポツポツの吹き出物。髪はボサボサのくせにテッペンは薄く剥げあがり、二重あごと首の区別が付かないほどにブヨブヨと太っていた。
(まるで泥亀だな・・・)
山下はそう思いながら交番に入ると、この状況に困り果てていた松嶋巡査が「あっ山下部長!」と叫びながら安堵の表情を浮かべた。

「どうしたんだいったい・・・」
山下は若者達をジロリと一瞥しながら泥亀男の前に立った。
「こいつがアケミの尻を携帯で盗撮してたんだよ」
チャラチャラ男が代表して山下に訴えた。

「・・・おまえ、本当に撮ったのか?」
山下は泥亀を睨んだ。交番勤務歴40年の山下の鋭い視線に泥亀はとたんにたじろいだ。
「何言ってんだよ!撮ったに決まってるだろ!俺たち見てたんだぜ!」
日焼けし過ぎてすでに「焦げ」の部類に入っている真っ黒な金髪少年が山下にそう叫んだ。
山下は焦げ少年をジロッと一瞥すると再び泥亀を見た。

「携帯。見せてみろ」
山下が泥亀に手を出すと、泥亀は観念したかのようにポケットから携帯を取り出した。
泥亀は山下に睨まれながらデーターボックスのマイピクチャを開く。大量の水着の写真がズラリと並んでいた。
それを覗き込んでいたチャラチャラ男が「こいつ常習犯だべ!」と叫ぶと、再び交番内は「ふざけんなよ」、「キモいんだよ」、「オタク野郎」の大合唱となった。

「この娘の写真はどれだ」
山下が聞くと、泥亀はピッピッピッと携帯を操作しながら1枚の写真をアップした。

「ほら見ろー!やっぱり撮ってんじゃねぇかテメー!」
チャラチャラ男がそう叫びながら泥亀に突っかかろうとすると、外の若者達が奇声をあげながら一斉に交番に雪崩れ込んで来た。

「うるせぇガキ共!」
山下の野太い一喝で若者達の足がピタリと止まった。若者達だけでなく、松嶋巡査も、丁度交番の前を通りかかっていた老婆までも、山下のその怒声にビクッ!と身体を弾ませピタリと止まった。

「だいたいテメーらがこんな色気違いみてぇな格好してるからいけねぇんだよ。写真を撮られてイヤなら最初からこんな格好してくるんじゃねぇ!」
山下のべらんめい怒声は交番を抜け、目の前の海岸通りにまで響き渡った。
日頃、怒鳴られ馴れていない「ゆとり教育」な若者達は、山下のその迫力に度肝を抜いた。

結局、泥亀は携帯の写真を全て消去し、盗撮した女の子に謝罪をするという結果で終わった。
というか、山下に強引に終わらされた。
不満そうな若者達は「どっちが被害者だかわかんねぇよ」とブツブツ文句を垂らしながら解散し、泥亀も「もう盗撮しません」という誓約書を1枚書いて釈放された。

「いやぁ・・・山下部長が来てくれて助かりましたよ・・・」
松嶋巡査が冷たい麦茶を山下の前に置きながら、そう微笑んだ。

山下が冷たい麦茶を一口飲んで、ホッと一息ついた所に、またしても珍客が連行されて来た。
警察官と地元のライフセーバーに取り押さえながら連行されて来るその珍客を見て、松嶋巡査が「うわぁ・・・凄いのが来たな・・・」とおもわず顔を顰めた。

交番に連行されて来た親父は、山下を見るなり「私は無実だ誤認逮捕だ!」と涙目で叫んだ。
山下は、そう叫ぶ男の下半身をジロッと睨み、女性物の小さなヒョウ柄下着からちょこんとチンポがはみ出ているのを見て、おもわずプッ!と麦茶を噴き出した。

「なんだいこいつは」
山下は連行して来た警察官に聞いた。
「はい。シャワー室で下着を盗んだ下着泥棒です」
若い警官がそう説明すると、ヒョウ柄パンティーの親父は「違う!盗んでいない!」と叫んだ。
「って事は、あんたはそのパンツを履いて海水浴に来たって事か?」
山下が身を乗り出して男にそう聞くと、赤いTシャツを着たライフセーバーの青年が「いえ、僕は事件の数時間前に彼を挙動不審者として声を掛けていましたが、その時は普通の海水パンツでした」と口を挟んだ。そのライフセーバーの青年をチラッと見た山下は、その青年の顔が、「踊る大捜査線」の織田なんとかによく似てるとふと思った。

「違うんです。これは盗んだ下着じゃないんです。とにかくゆっくりと事情を説明しますからワケを聞いて下さいお願いします・・・」
ヒョウ柄パンティーの親父は酷く疲れきった表情でそう呟くと、そのままドテッと交番の床に倒れ込んでしまったのだった。



「しかし・・・娘の下着に興味を持つなんて・・・ちょっと普通じゃ考えられないですよね・・・」
白い自転車に跨がる松嶋巡査は、必死にペダルを漕ぎながら隣を走る山下部長にそう話し掛けた。
昼の海岸通はピークの混雑で、駐車場に入れない車が延々と列を作って並んでいた。
「世の中・・・狂ってんだよ・・・」
山下は潮風にポツリと呟いた。
「えっ?なんかいいましたか山下部長!」
松嶋が必死で山下の横に並びながら聞いた。
「なんでもないよ!」
山下は松嶋にそう叫ぶなり、いきなりキキキーッ!と自転車のブレーキをかけた。
慌てた松嶋もブレーキをかけるが、おもわずハンドルを取られガシャン!と豪快にひっくり返った。

「いきなりどーしたんですか山下部長!」
歩道に溜る海岸の砂にまみれながら、ひっくり返ったままの松嶋が叫ぶ。
「見ろ・・・変態だ・・・」
山下は海岸を見つめながらそう呟くと、ゆっくりと指を差した。
山下が指を差したその先には、性器を剥き出しにした若い女が、渋滞する道路に向かってジョボジョボと小便をしているのであった。

その女は陰毛をツルツルに剃ったパイパンだった。
「あんた、こんな所で何やってんだよ!」と、松嶋が女に近付くと、しかし山下は女とは反対方向にいきなり走り出した。
「えっ?」と松嶋が走り出した山下に振り返ると、山下は砂浜を逃げる男に飛び掛かり、いきなり「エイヤ!」とその男を砂浜に投げ飛ばした。
山下に捕まった男は、小便女の亭主だった。
砂だらけの亭主は、高価そうなデジカメに付いた砂をセッセと払いながら、「すびません」と謝った。
2人は露出系のネットに「妻の放尿シーン」を投稿する為でしたと白状し、「本来なら強制わいせつで逮捕だぞ!」と山下からこっぴどく説教を受けると、トボトボと項垂れて帰って行った。

「しかし、さすが山下部長ですね。よく男がいる事がわかりましたね・・・」
松嶋ひっくり返った自転車を起こしながら山下に尊敬の視線を送った。
「だいたい、あんな変態には必ず男が絡んでいるもんだ。女は1人じゃあんな事しねぇよ・・・」
山下はそう言いながら自転車に跨がると、「全部、男が悪いんだよ・・・」と呟き、そして再び自転車を海水浴場へと走らせたのだった。

海水浴場は芋洗いのように人人人で溢れかえっていた。
20年間、歌舞伎町の交番に勤務していた経験のある山下にとって人混みと言うのは馴れたものだったが、しかし、この暑さには敵わなかった。
警察官は、どれだけ暑くても制服を脱いではいけない。かろうじて蒸れた警帽を取ってハンカチで額を拭うくらいが限度なのだ。
山下と松嶋は、青い制服の背中と腋に黒々とした汗のシミを作りながら、まるでサウナのような海水浴場を進んだ。

海水浴場にズラリと並ぶ海の家の、ほぼ中心辺りに、シーズンだけ特別に設置された「海水浴場特設交番」がある。そこまでの辛抱だと自分に言い聞かせながら、2人はまるで砂漠を彷徨う漂流者のように、灼熱の砂浜をズンズンと進んだ。

「あっ!おまわりさん!」
海の家「波しぶき」から山下達を呼び止める声が聞こえた。
山下達はそのまま進路を変え、「波しぶき」に向かって砂を踏みしめた。

太陽の照りつける砂浜から海の家の軒下に一歩入ると、一瞬にして目の前が真っ暗になった。
「裏の簡易シャワーで何か騒いでるのよ、早く言ってあげて」
波しぶきの女将さんが、忙しそうにカキ氷を作りながら山下達に言う。
シャカシャカと氷が削れる音を聞きながら、山下と松嶋は、おもわずカラカラに乾いた喉にゴクリと唾を押し込んだ。

2人が海の家の裏にある簡易シャワーへ向かうと、そこは既に人だかりが出来ていた。
「ちょっと開けて・・・はい、ちょっと道を開けて・・・」
山下がそう慣れた手つきで人を掻き分けると、人混みの真ん中に、素っ裸の男が正座しながら項垂れているのが見えた。
「なに?どうしたの?」
山下が男に声を掛ける。
正座していた男は山下達の制服姿を見ると、いきなり「わあっ!」と山下の足にすがり付いては「助けて下さいおまわりさん!」と涙声で叫んだ。
その男はまるで宝塚の男役のようなすこぶる色男で、スタイルもファッションモデルのような肉体美を持っていた。

「助けてじゃないだろ!被害者はアタシのほうだよコラぁ!」
とてつもなくブヨブヨのババアがそう叫んだ。
ババアは項垂れる男の前に仁王立ちになり、泣き叫ぶ男を鬼のような形相で睨みつけている。
山下は一瞬、そのババアは布団を叩いては騒音を撒き散らしていた、あの騒音おばさんではなかろうかと目を疑った。

「どういう事かな・・・説明してもらえますか?」
松嶋がブヨブヨのババアに近寄った。
「・・・この変態野郎がさ、私がシャワー浴びてる所にいきなりチンコ出して入って来たんだよ。アタシャびっくりしてさ、この痴漢野郎!って取っ捕まえてやったのさ」

山下は、足下でブルブルと震えている色男を見下ろし、「本当か?」と色男に小声で聞いた。
色男は、すかさず「本当です。だから助けて下さい」と叫ぶ。
チカンをしておきながら助けて下さいとは、なんとも理不尽な話しだと山下は思ったが、しかし、被害者とされるこのキチガイババアを見ると、色男の言ってる意味もなんとなくわからなくもなかった。
「とにかく、交番に行こう。ところでオマエ、海パンどうした?」
山下が色男に聞くと、色男は淋しそうに簡易シャワーの前に転がっているクシャクシャの布切れを指差した。
「あれか?」と、山下がそれを拾うと、その海パンは無惨にもビリビリに破られていた。
「なんだこりゃ?」
山下が色男の顔を覗き込むと、色男はいきなりブヨブヨババアを指差し、「僕はあのお化けにレイプされそうになったんです!」と叫んだ。

「なんだとテメー!ふざけやがってこのチカン野郎が!」
ブヨブヨババアが恐ろしい剣幕で騒ぎ始めた。その剣幕に「ひっ!」と松嶋が飛び上がると、周りを囲んでいた野次馬達が一斉に笑い出したのであった。


「痴漢に押し入って、逆に強姦されそうになった・・・・」
海辺の特設交番の中で、扇風機の風に髪の毛をフワフワと靡かせる松嶋が天井を見上げながら呟いた。
「・・・ねぇ山下部長、この場合、被害者と加害者の両方ともが逮捕され、事件は強制わいせつ罪と強姦未遂の別々に審理されて行くんですかね・・・」
巡査部長の昇任試験を控えている松嶋は、ポケットの中から手帳とペンを取り出すと、ラムネのビー玉をカラカラとさせながらボンヤリと海辺を眺めている山下に聞いた。
「知らねぇよそんな事・・・」
山下は無愛想にそう呟くと、座っていたパイプ椅子が震えるほどの特大な屁を放った。
特大放屁に松嶋が「ひっ!」と驚くと、山下はラムネの瓶をデスクの上にゴッ!と置き「俺は今夜は夜勤だから、ちょっと寝るぞ・・・」と素っ気なく言い、さっさと奥にある仮眠室へと転がり込んで行ったのだった。



余りの暑さに布団から飛び起きた山下は、まるでサウナに入ったように汗でぐっしょりと濡れているランニングシャツを「うひゃ・・・」と言いながら見つめ、またゴロンと布団に寝転がった。
特設交番の仮眠室の窓に、パーン!パーン!と打ち上がるロケット花火が映っていた。
時計を見ると8時を過ぎていた。
海岸での打ち上げ花火は9時までと決まっている。あぁ、あと一時間でまたあのアホ共と戦わなくてはならないのかと思うと、山下はウンザリした。
しかし、そんな山下は、この日をもってこの海岸交番ともおさらばだった。
定年。
40年の警官人生も、今夜でピリオドを打つ。
だからこの糞暑い特設交番とも今夜の夜勤でお別れなのだ。
山下は、枕元のタバコを手にすると、いつの間にかタイマーが切れていた足下の扇風機のスイッチをカチッ!と押した。
煙をフーっと吐きながらまた布団にゴロンと横になる。
天井に昇るタバコの煙を見つめながら、40年間色々あったよな・・・と小声で呟いてみた。
そして山下は、どうして俺はこんなトコに来てしまったんだろう・・・と、ふと思った。

今から20年前、山下は新宿歌舞伎町の交番勤務だった。
犯罪激戦区の歓楽街・新宿歌舞伎町。ここはあらゆる変態達が蠢いている。
路上で脱糞するスカトロマニア、全裸で小便をピューピューと飛ばしながら歩いている女、人が大勢行き交うコマ劇場の前の路上で堂々とセックスしている露出狂や、誰でもイイからしゃぶらせてくれ!と通行人の股間に顔を埋めるホモ親父などなど、歌舞伎町には信じられないような変態達がウヨウヨしていた。
そんな変態達に若い正義感をぶつけては、日々、町の治安を守っていた山下だったが、しかし、ある時、どうにもやるせない事件が山下の目の前で起きた。

それは自称18才の少女だった。源氏名をマリと言い、歌舞伎町のピンクサロンで働く少女だった。マリは少し知能に障害を持つ女の子らしかったが、しかし、マリの持つその仕草や表情などは白痴独特の可愛らしさが溢れており、店でもかなりの人気嬢だった。
そんな少女は出勤前と出勤後に必ず交番に立ち寄った。そして今日はこんな客が来て私のどこそこを触ったなどと愚痴をこぼし、麦茶を一杯飲んでは帰って行った。アパートは中野にあると言っていた。
そんなマリが、その交番に執拗に通っていた理由は、山下の事が好きだったからである。
それは山下も、他の同僚達も知っていた。しかし、マリ本人は、自分が山下に好意を寄せている事は誰にも知られていないと思い込んでいた。
マリは、いつも山下だけに差し入れをした。たこ焼き、たいやき、ハンバーガー。いつもペチャンコに潰れていた。
ある時、山下はマリに問い質してみた。
「キミはいったいどこの生まれでどうしてこんな町にやって来たんだい?」
マリには少し東北の訛りがある。だから山下はマリの故郷を聞いただけだったのだが、しかしマリは勘違いした。
自分が何かの事件の参考人として取調べを受けていると思ったのだ。
「わだし、何にも悪い事してねぇって!」
マリは突然感情的になり、交番を飛び出した。
それ以来、プツリとマリは交番に来なくなった。
それからしばらくして、歌舞伎町のビルとビルの隙間から少女の変死体が発見された。
首を絞められて殺されていた少女の股間にはバイブレーターが刺さったままで、顔面には人糞が塗り込められていた。
殺されたのは、秋田出身の住所不定、飲食店でアルバイトをしていた田中真利江13才。
そう、それはマリだった。
マリは秋田から家出をして来た中学生だった。新宿公園で路上生活し、働いていたピンサロでは本番行為までしていたという。
そんな中学生のマリと、毎日2度も顔を合わせておきながら、マリが中学生だったと見抜けなかった山下は悔みに悔んだ。マリのあの幼い口調は、知能障害のせいだとばかり山下は思い込んでいたのだ。
その日から、マリが殺されたのは自分のせいだと思い込んだ山下の生活は堕落した。昼間から酒を浴びるように飲み、注意する同僚には見境無しに殴り掛かった。
出世の登竜門とさえ言われている激戦区・歌舞伎町交番で、山下は1人ポツンと取り残された。
そしてそんなある日、とうとう山下は事件を起こした。
15才の少女を働かせていたというキャバクラ店を摘発した際、山下は不意にマリの事を思い出し、連行されるその店長を殴ってしまったのである。
即刻、山下は飛ばされた。
警察官の登竜門である歌舞伎町交番から一気に真っ逆さまに落ちた山下は、今まで見た事も聞いた事も無いような田舎町の交番を20年間たらい回しにされた。
そして辿り着いたのが、この海岸特設交番だった。

山下は、仮眠室の雨漏りのシミが広がる天井を見つめながら、色々あったけど、それもこれも今夜で最後だ・・・と、深い溜息と共にタバコの煙を吐き出した。

と、その時だった。
「山下部長!起きて下さい!事故です!」
若い巡査の声がドアの隙間から飛び込んで来た。
よっし!
山下は枕元の灰皿でタバコを揉み消すと、ムクリと布団を起き上がり、壁の時計の針を見た。
(残りあと10時間。警察官最後の一汗をかいて来るか!)
山下はジメッと湿った汗臭い制服を羽織ると、ボタンを止めながら20年間履き潰した靴にソッと足を入れたのだった。



現場は、特設交番と目と鼻の先にある「浜金」という海の家だった。
そこの裏にある仮設トイレの穴に、少年が落ちて抜けなくなっていると店の主人から通報があった。

現場に到着した山下は、その状況を見て、おもわず「うっ」と顔を背けた。
なんと、まるで便器の中で逆立ちでもしているかのように、少年が仮設トイレの穴の中に頭からズッポリと腰まで入ってしまっているのである。
それはまるで、映画「犬神家の一族」で湖に突き刺さっていた死体のように便器の穴からピーンと足を伸ばしていた。そして少年は、その両足をバタバタとさせながら、穴の奥深くでウンウンと唸っていた。

「おい!息は出来るか?」
山下は糞尿の強烈なニオイが突き刺す便器に顔を近づけ、穴の中の少年に話し掛けた。
「息は出来ます!でも臭いです!」
山下は、少年のその返答に不謹慎ながらつい噴き出してしまった。

山下は、浜金の従業員にサンオイルを貸して貰い、それを少年がズッポリと挟まっている穴の隙間にダラダラと垂れ流すと、若い巡査と2人して少年の足を持った。
「いいか、せぇーの!で同時に引っ張るんだぞ」
山下は若い巡査にそう告げると、小さな声で「せぇーの!」と叫んだ。

いとも簡単にズボッ!と少年の体が宙に浮いた。
地獄の穴から解放された少年は、過呼吸を起こした老人のようにガハーッ!ガハーッ!と激しく息を吐くと、必死で便器にしがみついた。

「もう大丈夫だぞ坊主!」
そう叫ぶ山下はおもわず少年を抱きしめそうになったが、少年から漂う強烈な悪臭に恐れを成して、抱きしめるフリをするだけに止めたのだった。

「あんた、いったい何やってたのよあんなトコで・・・」
浜金の女将が、そう叫びながらホースの水を少年の顔にぶっかけていた。
山下は、そんな少年を見てケラケラ笑いながら、なにげなく便器の中をソッと覗いた。
便器の穴の奥に、青い柄の女性物のパンティーが落ちているのに気付いた。

(あのガキ・・・アレを拾おうとしてたんだな・・・)

山下はホースから飛び出す水圧で頬が歪んでいる少年を見つめながら、「坊主、いったい何時頃からここに挟まってたんだよ」と聞いた。
するとホースを持つ浜金の女将が「私が発見したのがかれこれ30分前くらいだったからね・・・」と答え、それに合わせるように少年が、「6時頃、落ちました」と答えると、ホースの水が開いた少年の口の中にゴボゴボゴボっと飛び込んだ。

(と言う事は、2時間近くもあの地獄ん中をもがいていたのかコイツは・・・・)
そう思った山下は、これで少年も懲りるだろうと思い、あえて便器の中の女性用の下着に付いては触れないでおいてやったのだった。

浜金を後にした山下は、「ちょっとそこら辺をブラブラして来る」と若い巡査に告げ、1人で夜の海岸を歩き始めた。
時計の針を見るとあと15分で9時だ。
海岸にはまだロケット花火で遊ぶ若者達が大勢いた。
できれば、最後の夜くらい、この花火戦争は避けたいものだ・・・・
山下はそう思いながら、花火をする若者達を横目に、海岸の奥へと進んで行ったのであった。

しばらく進むと、砂浜に広げられたままのビーチシートを発見した。
ビーチシートの上には、脱ぎ捨てられた衣類が散乱し、それはあきらかに忘れ物といった部類のものではなかった。

この海水浴場では、夜の遊泳は禁止されている。
山下は、懐中電灯で、それらの衣類を照らす。海水浴場には不釣り合いな黒い革靴が不雑作に転がっていた。
山下はその革靴から、夜の遊泳をしているのは中年男性だと判断した。
中年男性の場合、酔って遊泳している可能性が高い。
山下は一刻を争う事故だと判断し、すぐさま応援を呼ぼうと無線機を手にした時、いきなり暗闇から不気味なすすり泣きを耳にした。

ギョッ!とした山下は、慌てて暗闇に懐中電灯の灯りを向けた。
脱ぎ捨てられた革靴から少し離れた場所に、人がいるのが見えた。
山下は身構えながら、その人影にゆっくりと歩み寄る。

それは、裸で抱き合う中年の女と中年の男だった。
「もしもし・・・」
山下は懐中電灯の灯りをズラしながら、ボンヤリと見える2人に向かって声を掛けた。
山下のその声に、女はチラッと山下を見た。

女は、山下が警官だと知ると、いきなりガバッ!と起き上がった。女は酷く慌てた様子で、急いで水着のパンツを履き始めた。
「・・・ここにある衣類は、お宅さん達の物かね?」
山下がそう尋ねると、女は「はい、そうです」としっかりした口調で答えた。
しかし男の方は、奇妙な声を出してはヒソヒソと泣いたままだった。

そしていきなり男はガバッ!と山下に振り向くと「やっぱり僕は人間失格です!」と叫んだ。
驚いた山下が男の顔に素早く懐中電灯を向けると、男は大量の鼻水と大量の涙で顔面をグシャグシャにしながら「眩しいです!」と叫びながら両手で顔を隠してしまった。

「酔っぱらってるのかね?」
山下は、再び懐中電灯の灯りをソッとズラし、女の方に聞いてみた。
「いえ・・・ちょっと病気なんです、この人・・・」
女はそう言いながら、両手で顔を覆ってはブルブルと震えている中年男を優しく抱き寄せた。
男は女に抱き寄せられるなり「捨てないで!僕を捨てないで!」と叫びながら抱きついた。
女は困った表情で山下に笑いかけながら男の頭を撫で、「心配しないで、捨てたりなんかしないから」と呟いた。
すると男は「インポでも?」と真顔で答えた。
山下はおもわずブハッ!と噴き出してしまった。
すると、女もクスッと笑いながら、男の頭を撫でては「ほら、お巡りさんも笑っているわよ」と呟いた。

本来なら、ここまで挙動不審な奴は薬物の尿検査をする所だが、しかし、山下は、おもわぬ所で美人奥さんの大きな乳房を拝ませて貰ったから、ま、今日の所は許してやろうと思い、ここら辺は夜になると野犬がウロつきますから早く帰るように、と、いつもの捨て台詞を残すと、山下はその場をソッと後にしたのだった。

そのまま山下は、更に暗闇の海岸を懐中電灯ひとつで進んだ。
夜の海岸と言うのは何が潜んでいるかわからない。ある時など、いきなり暗闇の中から包丁を振り回す外国人に出会し、おもわず拳銃を向けてしまったほどだ。
夜の海岸というのは、もしかしたら歌舞伎町よりも危険かもしれないぞ、と改めてそう思いながら、山下は残り少ない海岸勤務に気を引き締め直したのだった。

しばらく行くと、数人の若い男女が暗闇からノソッと現れた。
山下が慌てて懐中電灯で照らすと、若者達は一斉に「わあっ!」と驚いた。
「なにやってんだキミ達は・・・」
懐中電灯は5人いる若者達の顔を素早く懐中電灯で照らし、薬物の形跡はないかと即座に調べた。
若者達は普通の大学生といった感じのグループで、薬物独特の表情は見られなかった。
ただ、少し飲んでいるようだ。

「この辺で一番近いコンビニってどこですか?」
顔を赤らめた青年が山下に聞いて来た。
「コンビニは、ここを真っすぐ行って大通りに出ればすぐにあるけど・・・しかし、キミ達はここで何をしてるんだね?」
「僕達、キャンプしてるんです」
悪びれる事も無く青年が素直にそう答えた。
「キャンプはいいが・・・余り飲み過ぎるのは良くないよ。先日も酔っぱらった青年が夜の海で溺れるという事故があったばかりだからね」
山下がそう言うと、女の子が好奇心の目を爛々と輝かせながら「この海でですか?」と聞いて来た。
「ああ。すぐそこさ」
山下がそう言って暗闇の海岸を指差すと、若者達は一斉に「コワーイ!」と叫んだ。
「幽霊出ますか?」
ひょうたんのような顔をした青年が嬉しそうに聞いて来た。
好奇心の女の子は、海岸に向かってデジカメのシャッターを押し、「心霊写真が写るかも!」とはしゃいでいる。
山下はとたんにアホらしくなった。
こういった類いの若者は、どうしてすぐに幽霊とか心霊に結びつけたいのだろうと、うんざりした。
「美佐子、1人で寝てるけど大丈夫かなぁ、幽霊にレイプされちゃったりして!」
「大丈夫よ、美佐子は泥酔して寝ちゃってるからレイプされたって気付かないって!」
若者達は口々にそう騒ぎながら、暗闇の中へと消えて行った。

山下がしばらく行くと、先の方にボンヤリと灯る焚き火の灯りが見えて来た。
どうやらさっきの若者達のキャンプらしい。
山下は、火事になったらどうするんだ!とブツブツ言いながら、焚き火に向かって歩き出した。

驚いた事に、焚き火の横には、グーグーと鼾をかいでいる若い女の子がいた。
山下は慌てて若者達に振り向きながら「おい!」と声を掛けたが、若者達はもう随分と先へと行ってしまっており、返って来たのは夜の波の音だけだった。
ガーガーと鼾をかいでいる女性の周りには、缶ビールの空き缶が大量に転がっていた。
かなり飲んでいるらしい。
こんな所に、泥酔した若い女性を放っておくわけにもいかない。こんな所を変態にでも見つかったら、この女性はたちまち犯されてしまうのだ。

仕方なく山下は、寝ている女性の横に静かに腰を下ろした。若者達がコンビニから帰って来るまでここでこの泥酔女性を見張っている事にしたのだ。
山下は、ブスッブスッと燻っている焚き火の赤い火を見つめながら、タバコに火を付けた。
夜空には宝石箱をひっくり返したような無数の星が輝いていた。
思えば・・・俺の警察人生は大した事件も無く、平々凡々と終わって行ったな・・・・
そう思いながら夜空の星を見上げ、ふとマリのあのあどけない笑顔を思い出した。

パチ!と焚き火が音を立てた。それと同時に、泥酔女が「うぅぅぅ・・・」と寝返りを打つ。
仰向けになった泥酔女は、なんとオッパイを丸出しにしていた。

(嘘だろ!)
山下は慌てて立ち上がった。
こんな所を誰かに見られたら、痴漢警察官だと勘違いされてしまうのである。
そうなったら退職金もパァだ。
しかし、このままこの女性を残して立ち去るわけにも行かない。
そうだ、誰か応援を呼ぼう!
と、そう思った時、偶然にも山下の無線が鳴った。
「えー、山下部長、山下部長、只今より、打ち上げ花火の警告に行って参ります、どうぞ」
それは若い巡査の声だった。
「あー・・・山下だが、現在、浜辺で泥酔した女性を発見。仲間が戻るまで泥酔者の保護をしているから、そっちはよろしく頼む、どうぞ」
山下がそう答えると、無線からは若々しい声で「了解しました!」と返答が返って来た。

さて・・・どうしたものか・・・・
山下はオッパイを曝け出して寝ている女性をチラッと見た。
それは、おもわずドキッ!としてしまうほどの綺麗なオッパイだった。

よく見ると、女性は寝相が悪い為か、着ていたTシャツが捲れあがってしまい、そこから乳がはみ出していた。そのTシャツをちょっと直してやればこの問題は取りあえず解決するのだ。
よし、と思った山下は、勇気を出して恐る恐る女性に歩み寄った。

「もしもし・・・キミ、ちょっと起きて!」
そう叫びながら山下は女性を覗き込んだ。
鼻筋がキッと通ったイイ女だった。
女性は山下の声にピクリとも反応せず、更にグーグーと鼾をかいては眠っている。
まったく起きる気配は感じられなかった。

しょうがない・・・
山下は女の体に手を伸ばした。
柔らかいTシャツの生地には女の温もりが宿っていた。
それを引っ張ろうとすると、山下の手首に、女の乳首がコロッと触れた。
瞬間、山下の頭にカーッと血が上った。
気がつくと、山下は女の両乳を手の平でガッシリと握ってしまっていたのだった。

それから一時間後、やっと若者達が帰って来た。
いつもなら、そんな若者達を何時間も時間を掛けて大説教してやるところなのだが、しかし、ついついモミモミしてしまった事に後ろめたさを感じていた山下は、今夜の所は穏便に許してやる事にした。
山下は交番に戻りながらも、両手に残るあの柔らかい乳房の感触が離れなかった。

交番に戻ると、既に花火戦争は終わっていた。
若い巡査の報告によると、特に大きなトラブルも無く、スムーズに解決したとの事だった。

時計を見ると12時を過ぎていた。
次は、いよいよ深夜の大イベント、暴走族退治である。
山下は、手の平を何度も何度もモミモミと動かしながら、暴走族が出没するその時間までテレビでも見ていようと、リモコンのスイッチを押したのだった。

山下が深夜番組を見ながらウトウトしていると、いきなり電話が鳴り響いた。それは、車同士の接触事故というなんとも張り合いのない事故だった。若い巡査2人が現場に向かう。
山下はチラッと時計を見る。2時30分。あともう少しでこの忌々しい海岸交番ともオサラバだ。それまで来るなよ暴走族、と思いながら、再びテレビに目をやった。

しばらくすると再び電話が鳴った。
「はい海岸特設交番!」
山下がそう叫びながら電話に出ると、それは近所のコンビニからだった。
裏の駐車場でワンボックスカーに乗った男と女がいかがわしい行為をしているから何とかして欲しい、という通報だった。

いつもなら、そんな通報など知らん顔する山下だったが、しかし今夜はなぜか妙にムラムラとしている。まだあの泥酔女の胸の温もりが手から離れないのである。
山下はゆっくりと立ち上がると、そのまま1人で現場に向かったのだった。

現場は、コンビニの裏の小さな空き地だった。
近くに住宅も無く、人通りがあるわけでもない。こんな事でいちいち交番に通報するなんて野郎は、よっぱど暇なヤロウなんだな・・・、と思いながら、一応、付近に不審者や危険物はないかと懐中電灯で調べた。

何の異常もない事を確認すると、山下は足音を忍ばせてワンボックスカーに近付く。
ソッと運転席を覗くと、若い男が若い女のTシャツの中に手を入れていた。

久々に山下はドキドキした。あと数時間でここの任務が終了すると言う開放感と、先程の胸の感触が山下をそうさせていた。

本来なら、ウィンドゥをコンコンと叩いて注意を促すのだが、山下はそのまま黙って中を覗いていた。
男は不細工な面をしていたが、しかし女はなかなか綺麗な女の子だった。
こんな女の子のいかがわしいシーンなら、金を払ってでも見たい物だ、などと馬鹿な事を考えている。

不細工な男は、女のTシャツをゆっくりと捲り上げた。飛び出した真っ赤なブラジャーが山下の脳味噌を刺激した。
赤いブラジャーに包まれた大きな胸を見て、顔も良しスタイルも良し・・・・と心で呟く山下は、自分が勃起している事にふと気付いた。

驚いた。ここ10年近く不能だったペニスが、まるで生き返ったかのようにドクドクと脈を打っているのだ。
山下は制服の上から股間をギュッと握り、その力強い筋肉を確かめながら、最高に幸せな気分になった。

車の中の男が女の真っ赤なブラジャーに手を掛けた。ガサッと上にズリ上げられた赤いブラジャーから、豊満な乳房がブルンっと飛び出した。
男はハァハァと興奮しながら女の大きな胸を揉む。そんな男を上目遣いに見つめる女が、意味ありげにニヤリと微笑んだ。

その女の怪しい笑い顔が、ふと誰かに似ていると山下は思った。
男は女のデニムの短パンに手を掛けた。女が再びニヤリと微笑んだ。

(あっ!マリ!)
そう、その女のその微笑む仕草は、まさしく20年前、新宿歌舞伎町で殺されたマリの顔にそっくりだった。



山下の足はガクガクと震えた。
その女は、あまりにもマリと似すぎるのだ。
10年ぶりに勃起したペニスもすっかり萎えてしまっていた。

(定年まであと数時間と言うこの運命的な時に・・・マリ・・・まさかおまえに会えるなんて・・・)
知らぬ間に、山下の頬を涙が伝っていた。山下が泣いたのは、そう20年前のあの歌舞伎町で、マリの変死体が発見された時以来の事だ。

(10年ぶりに勃起したり、20年ぶりに泣いたり・・・忙しいラストだな・・・)
山下はフッと笑みを零し、頬の涙を拭い取った。

車内の男が勃起したペニスを剥き出しにした。パンティーを脱がせそのまま女の上に乗ろうとする。
その時、再び女はマリの笑顔で微笑んだ。そして今度は、笑顔のまま何やら男にボソボソッと呟いた。
男は一瞬「えっ?」と言った感じで体を固めたが、しかしすぐにポケットから財布を取り出すと、中から一万円札2枚を取り出し、それを女の大きな胸の上にサッと投げた。

それはあきらかに売春だった。いや、今風に言えば援助交際とでも言うのだろうか、しかし、どっちにしても男が性交した瞬間に売春の現行犯となる。
苦々しい表情で見ていた山下の目前で、男は女の両足を抱え、ヌプヌプと勃起したペニスを女の中へ埋めて行った。

山下は時計を見た。時刻は3時丁度だった。山下の定年退職は日の出で決定する。日の出まで、あと約1時間・・・どうする?・・・・

山下は逮捕を諦めた。マリに良く似た少女を最後に逮捕すると言うのも何とも後味の悪いモノだ。
立ち去ろうとした山下は、男の背中にしがみつきながらボンヤリと天井を眺めているマリに良く似た少女をもう一度良く見た。
(定年最後の日に・・・俺に会いに来てくれたんだな・・・ありがとうよマリ・・・・)
山下がそう語りかけると、一瞬、少女が山下を見てニヤッと笑った気がした。

通報をしたコンビニに立ち寄った。50過ぎのおっさんが真夏だと言うのにおでんを作っていた。
「海岸の交番だけど・・・」
そう言いながら山下がおっさんに近寄ると、おっさんは黙ったまま手に持ったおでんの具材をおでん器に入れ始めた。
「通報してくれたのはあなた?」
山下がおっさんにそう聞くと、おっさんは「どう思う」といきなり山下に聞いた。
「・・・なにが?・・・」
「この暑いのに、おでんが飛ぶように売れるってのはおかしいと思わないかね、あんた」
おっさんはそう言いながら、ゆでたまごをツルンとおでん器の中に滑らせた。
「・・・まぁ・・・そうだねぇ・・・」
山下は眠そうなおっさんをジッと見つめた。
「・・・なんでかわかるかね・・・」
「わからん」
山下はちょっとムッとしながら即答した。
おっさんは白い発泡スチロールの皿を取り出すと、そこに茹で上がってブニャブニャになった竹輪とはんぺんを取り出した。そして更におでんの汁の底の方を割り箸で掻き回すと、中からおでんの汁で茹で上がった「プッチンプリン」を取り出し、そしてカップが熱で膨らんだ「明治ブルガリアヨーグルト」をビチャビチャと発泡スチロールの皿の上に取り出した。
そしてそこで初めて山下の顔をグッと見つめた。
「それはな・・・温暖化だからだよ・・・」
おっさんの目は、あきらかに狂っていた。
よく見るとそのおっさんは、さっき海辺で「僕を捨てないでくれ!」と泣き叫んでいた、黒い革靴のおっさんだった。


山下は一人のんびりと海岸に向かって歩いていた。
幸い、定年最後の日に、あの忌々しい暴走族は出没しなかった。山下はそれだけでも有り難いと、大きく背伸びをし、そのまま海岸へ繋がる土手を駆け降りた。

ぼんやりと青白く輝く海岸線には、「早朝カラス」と呼ばれる黒いウェットスーツを着たサーファー達がポツリポツリと出現し始めていた。

夜明け間近の海岸は群青色に染まっていた。
穏やかな波の音が心地良い。
時刻は3時50分。
あと10分で、山下の40年の警官人生が終わる。

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冷たい潮の香りをおもいきり吸い込み、交番へ向かって歩き出した。

海の家が立ち並ぶ遊泳区域に来ると、砂浜には昨日の足跡が無数に広がっていた。
野良犬一匹いない朝の海岸。
定年退職の門出にふさわしい風景だった。

と、思ったら、前方に人影が見えた。
海の家の路地から出て来たその男は、両手両足を包帯でグルグル巻きにして、あきらかに不審人物だった。
海の家荒らしだろうか?・・・・
あと十分で退職する山下は、その男に職務質問しようかどうしようか悩んだ。

と、その時だった。
「遅い!何やってたのよ!」
海の家の前に座っていた若い女が、包帯グルグル男に向かっていきなり叫んだ。
女はそのままスタスタと男に歩み寄り、何やら2人はボソボソと話し合っている。

これは、海の家荒らしじゃないな・・・・
山下は最後の最後に職質しなくてもよかった事にホッと肩を撫で下ろした。

いきなり女が、キャハハハハ!と笑い声をあげながら海辺に向かって走り出した。
山下の目の前を走り抜けて行ったその女は、そう、ついさっきコンビニで売春していた、マリに良く似た少女だった。

包帯グルグル男は、何やら嬉しそうに泣き叫びながら包帯をした足を引きずりながら少女を追いかけた。
山下は、絶対にあいつは「こいつー!」と定番のセリフを叫ぶぞ、と、密かにワクワクしながら眺めていた。
しかし、最後まで包帯男は「こいつー!」と叫ばないまま少女を追い、そして途中で流木につまづき、豪快に砂浜の上にひっくり返った。

「アホか・・・」

山下はそんな2人の若者を微笑ましく見つめながら、ふと腕時計を眺めた。

時刻は4時を過ぎていた。
山下の新しい人生の始まりだ。

山下は大きく深呼吸しながら、制服のボタンをひとつひとつゆっくりと外した。
真っ赤な朝日が青い空と混じり、海岸は紫色に包まれた。

制服の上着を脱ぐと、汗だくのランニングシャツに爽やかな潮風が降り注いだ。

この猛烈に暑かった海岸で、山下は20年ぶりにやっと制服を脱ぐ事が出来たのだった。

(海水浴場の懲りない面々・全六話・完)

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