路地裏の妻1
2013/05/30 Thu 18:08
それは、お弁当屋さんのパートの帰り道の事でした。
お昼のピークを過ぎ、二時きっかりに帰らされた私は、日払いで頂いた千八百円を持って西友に向かっていました。
昼下がりの商店街は閑散としていました。五百メートルほど続くアーケードには、シルバーカーを押して歩く老婆が一人と、白衣を着た肉屋の店主が大あくびをしているだけで、静まり返ったアーケードには、高い天井から聞こえて来るFMラジオのディスクジョッキーの声だけがやたらと響いているだけでした。
そんなアーケードの真ん中に古い金物店がありました。その角を曲がってアーケードから抜けると、いきなり雨上がりの強い陽射しがパッと広がり、細い路地の湿ったアスファルトを黒く照らしていました。
そこには、裏路地特有の生活臭が漂っていました。軽自動車一台がやっと通れるくらいの狭い道路には、『警告』と書かれた赤紙が貼られた違法自転車がズラリと放置され、その隙間で薄汚い野良猫たちが日向ぼっこをしています。
妙にジメジメとした薄暗い路地でした。できる事なら通りたくない路地でした。しかしこの路地は西友の裏手に繋がっているため、西友に行くには近道なのです。
そんな路地を暫く進むと、緑のフェンスに突き当たりました。金網の向こうには『SEIYU』と赤く書かれた配送トラックが並んでいるのが見えました。金網に沿って右に曲がると、廃墟のような薄ら淋しい民家が三軒並んでおり、その一番端の角に、赤い回転灯のある白いプレハブが立っていました。
そこはパチンコ店の景品交換所でした。いつもそこには胡散臭い人達が並んでいるのですが、今日は男が一人ポツンと立っているだけでした。
そこを通り過ぎる瞬間、いきなりプレハブの小窓がシャカッと開き、おもわず私はその小窓を横目で見てしまいました。
プラスチックのキャッシュトレーの上で、一万円札が、ペシャ、ペシャと小気味良い音を鳴らしていました。五、六、七……と目で数えながら、パチンコってあんなに儲かるものなんだと驚いていると、不意にその男と目が合ったのでした。
厭な目をした男でした。まるで浅草の遊園地にある古いお化け屋敷の人形のような、そんな湿った目をした男でした。
男は、十万円近くの札をポケットの中に無造作に入れながら私をジッと見つめ、その湿った目のままニヤッと唇を歪ませました。
今までに感じた事のない嫌悪感に胸を締め付けられた私は、慌てて男から目を反らしました。
すると男は、「すみません」と声を掛けてきました。
そして私が振り向くなり、「一万でアソコを見せてくれませんか」と、いきなりそう言ったのでした。
瞬間、頭の中が真っ白になりました。
その言葉の意味が理解できないまま、「えっ?」と首を傾げると、男は黙ってニヤニヤと笑いながら一万円札を私に突き出していました。
一瞬、障害者なのではないかと思いました。しかし、その表情もその身形も至って普通であり、脳に障害を持っているような人には思えません。
という事は異常者に違いありません。見ず知らずの通行人にそんな事を言って来るなど、通り魔に近い精神異常者に違いないのです。
怖くなった私は「ごめんなさい、急いでますので」と小さく会釈し、早々とその場を立ち去ろうとしました。すると男は更に私を呼び止め、「見せてくれるだけでいいんですよ。三万円払いますからお願いしますよ」と言いました。
男のその言葉と同時に、不意に息子のリュックサックが頭に浮かびました。
私は足を止めました。
来月、小学一年生の息子の遠足があります。小学校に入学して初の遠足です。
ですが、息子のリュックサックは保育園から使っている物ですので随分と使い古され、袋の下には穴が開いていました。ベルトも擦り切れ、サイズも全く合っていませんでした。
小学生になって初めての遠足です。それではあまりにも可哀想だと思い、なんとか新しいリュックを買ってやりたいと思っているのですが、しかし、例えリュックだけを新しい物にしたとしても、弁当箱や水筒、箸やレジャーシートなどが古い物では意味がありません。どうせなら全て新品に買い揃えてやりたい。そうは思ってみても、今月の光熱費の支払いさえも危うい今の我が家の経済状況では、とてもそれどころではなかったのでした。
三万円。確かに男はそう言いました。
三万円あれば、リュックも弁当箱もレジャーシートも全て新品で揃えて上げられます。それに靴だって新しい物に買い替えてやる事ができるのです。
それだけではありません。二ヶ月溜まっている光熱費も支払う事ができます。それに、西友なら、夫の黄ばんだワイシャツも夫の破れた靴下も全て買い替えてやる事ができるのです。
私は素直に三万円が欲しいと思いました。
が、しかし、相手は異常者です。見知らぬ通行人に、いきなり性器を見せてくれなどと言って来る、通り魔のような危険な異常者なのです。
しかも、何故その相手が私なのだろうかと思うと、益々怪しく思えました。
私は、先月二十七歳の誕生日を迎えたばかりです。まして、パート帰りで化粧っ気もなく、身形も見窄らしい冴えない主婦なのです。
こんな私の性器を、三万円もの大金を払って見たいなど不自然過ぎます。
大通りに出れば、私よりも若くて綺麗な女の子が沢山歩いています。それに、ここから歩いて五分ほど行けば、それなりのサービスをしてくれそうな風俗店も沢山あるのです。
それなのに、わざわざこんな見窄らしい女の性器を三万円払ってまでも見たいなど、あまりにも怪しすぎるのです。
もしかしたらこの男は、私を人気のない場所に連れ込み、殺そうとしているのではないかと思いました。三万円という餌で私を引き寄せ、無惨に惨殺しようと企んでいる快楽殺人者なのではないかと疑いました。
すると、そんな私の心を読み取ったのか、急に男は優しい笑みを浮かべながら、「大丈夫ですよ、心配しなくても」と静かに笑いました。
「私はフェチなんです」
路地裏の埃っぽい風が二人の間を通り抜けていきました。
「いわゆる匂いフェチって奴ですよ。匂いにしか興奮しない変態なんです。だからあなたのアソコをちょっと嗅がせてもらうだけでいいんです。乱暴とかは絶対にしないから安心して下さい」
「…………」
「あなた、今、パートの帰りでしょ?」
私のくたびれた身形からそう察したのか、男は余裕の笑みを浮かべながら私の顔を覗き込みました。
男のどんよりとした目付きに狼狽えながらも、私が恐る恐るコクンと頷くと、男はフェンスの向こうを指差しながら「そこの西友?」と聞いてきました。
「……いえ……」
「どこ?」
「……商店街にあるお弁当屋さんです……」
「ああ、村松惣菜ね。あそこ時給悪いでしょ」
おもわず頷きかけた私は、慌てて我に返りました。こんな怪しい男に職場を知られるという事が、どれだけ危険な事かくらい、さすがの私でもわかるのです。
怖くなった私は「違います……」と慌てて首を振り、そのまま男を無視するかのようにして歩き出しました。すると男は、私のトートバッグの中に、いきなり三万円を押し込んできたのでした。
「困ります」
そう言いながら慌てて三万円を取り出そうとすると、男は私の腕を掴み「あなた、主婦ですか?」と聞いてきました。
「そうです。夫も子供もいます。だから離して下さい」
そう腕を引こうとすると、男はもう片方の手でジーンズのポケットを弄り、そこから更に一万円を取り出しました。そしてニヤリと不敵に笑いながら、「現役の主婦ならもう一万追加しますよ」と呟き、それを私のトートバックの中に押し込んだのでした。
合計四万円。
これだけあれば、子供のリュックや夫のワイシャツどころか、寝たきりのお婆ちゃんの浴衣だって新しい物を買ってやる事ができるのです。
そう思った瞬間、男の手から逃れようとしていた私の腕から、みるみると力が抜けました。
男は、私が堕ちた事に気付いたのか、「本当に見るだけだから安心して下さい」と優しく囁き、私の腕からゆっくりと手を離すと、「じゃあ、行きましょう……」と歩き出しました。
項垂れていた私は、歩き出した男の背中に向かって「あのう!」と声を掛けました。
「ん?」
振り向いた男の顔からは笑みは消えていました。
「……どこに……行くんですか……」
恐る恐るそう聞くと、男は西友の反対方向を指差しながら、「すぐそこのラブホです」と呟き、一瞬私の頭に、『売春主婦、昼のラブホテルで惨殺』という、Yahoo!ニュースの見出しがかすめたのでした。
私は、二十二歳で結婚するまで処女でした。それまでに付き合っていた人は二人いましたが、私はセックスに対して激しい嫌悪感を感じてしまうという異常な体質だった為、その二人からどれだけ誘われても必死に拒み続けていました。
私は異常でした。セックスという行為そのものが気持ち悪いのです。互いの性器を合体させながら貪るように蠢き合うなど、想像しただけで吐き気を催してしまうのです。
その原因はわかっていました。あの忌々しい出来事がトラウマとなり、私をそうさせている事は充分承知していました。
このままではいけないと思っていました。いつまでもあの呪縛から抜け出せないままでは、将来、まともな結婚はできないと焦った私は、二十歳の時、友達の紹介でレディースクリニックへ行ったのでした。
そこで私は、眼鏡を掛けた女医に忌々しい過去を洗いざらい話しました。
男性器に対する恐怖心、セックスに対する嫌悪感、性欲と共に芽生える頭痛と吐き気。それらを女医に説明すると、女医は、子供に「夏風邪ですね」と告げるかのように、『性嫌悪障害』という恐ろしい病名をさらりと告げたのでした。
聞いた事の無い病名でした。しかし大概は結婚すれば自然に治ってしまう程度の大した病気ではないらしく、病気と言うよりも一種の拒絶反応だから然程心配する事はないと言われ、ひとまず私は安心したのでした。
そんな状態のまま今の夫と知り合いました。そして二十二歳という若さで結婚に至るわけですが、眼鏡の女医のいう通り、結婚後はすんなり夫を受け入れる事ができたのでした。
それは、幸いにも夫はセックスに対して非常に淡白だったからでした。
元彼達のようにセックスにガツガツしておらず、趣味の悪いラブホに誘ったり、気味の悪いアダルトビデオを見せつけてくるような事もなかったため、私は自然に体を開く事ができたのでした。
妊娠するまでは、週に一度の割合でセックスをしていました。もちろん行為中は電気を消し、暗闇の中でイルカが泳ぐようにソフトに交わるのです。
子供が生まれると、その回数は月に一度あるかないかとなりました。これは決してセックスレスではなく、経済的な理由から二人目の子供を諦めたため回数が減ったのです。
最近のセックスはというと、夫の溜まった物を吐き出させてあげるといった、まるで治療のようなセックスでした。
元々、セックスに対してあまり興味のない二人でしたから、私たち夫婦にとってはそれで十分だったのです。
こんな私でしたから、この歳になっても、未だにラブホテルという所に入った事がありませんでした。
それでも、ラブホテルがどう言う所なのかは、雑誌やドラマで見た事があり、ある程度は知っています。が、しかし、私のイメージするラブホテルというのは、子供の頃に観た『特捜最前線』に出て来る殺人現場であり、そこに一度踏み込んでしまえば、二度とそこから出られなくなってしまうような、そんな危険なイメージしかなかったのでした。
そんな私が、つい五分前に知り合ったばかりの男とラブホなどに行けるわけがありませんでした。ましてこの男は、性器を見せろとか匂いを嗅がせてくれなどと薄気味悪い事ばかり言っているのです。
ラブホという言葉を聞き、とたんに激しい拒絶反応に見舞われた私は、ゾクゾクする焦燥感と、耳の上がチクチクする偏頭痛と、喉の奥から涌き上がって来る吐き気に襲われていました。
忘れかけていた性嫌悪障害が再発したのです。
マラソンの後のような脱力感に襲われながらも、私の足は見事に竦んでいました。もう一歩も動けません。一歩でも歩けば、お昼に食べたインスタントうどんを吐いてしまいそうなのです。
すると男は、そんな私を不思議そうに見ながら「ラブホは嫌?」と聞いてきました。
(ラブホが嫌というよりあなたが嫌なんです……)
そう心で呟く私でしたが、しかし、それを拒否してしまえば、この四万円は返さなくてはなりません。
新しいリュックを見て喜ぶ子供の姿が頭に浮かび、私は乾いた喉に唾を飲み込みました。見せるだけでいいんだ、見せるだけでいいんだ、と何度も自分に言い聞かせながら、ゆっくりと深呼吸をしました。
すると男は、そんな私を見ながら、「ふっ」と鼻で笑いました。そして、廃墟のような民家と景品交換所の間の通路を指差しながら、「ラブホがそんなに嫌なら、この奥でどうですか?」と笑いました。
その通路を恐る恐る覗くと、日陰に差し込む太陽の光りに、細かい埃がキラキラと舞っていました。細い通路の向こうは開けており、アスファルトが広がっていました。
「そ、外でですか……」
「はい。この奥はパチンコ屋の店員の専用駐車場になってるんです。営業中は誰も来ないから大丈夫ですよ」
男はそう言いながら、勝手に細い路地をガシガシと進んで行きました。
四万円。新しいリュックサック。
私はそう何度も呟きながら男の背中を睨んでいました。
飛び跳ねながら喜ぶ子供の笑顔を思い浮かべると、竦んでいた足からフッと力が抜けました。
右足がゆっくり前に出ると、同時に左足も動き出しました。
それを路地の途中で立ち止まりながら見ていた男は、唇の端を不敵にニヤリと歪ませました。
そして「早く行きましょ」と小さく呟くと、薄暗い路地を再びガシガシと歩き出したのでした。
(つづく)
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