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汚れし者5



 その翌朝、息子を幼稚園のバス停まで送り、その足で娘を連れて公園に行きました。いつもの場所にいつものママ友が集まっていましたので、私は挨拶をしながらその輪の中に加わり、特に仲の良かった三塚さんの隣にベビーカーを止めたのでした。
 三塚さんは私のベビーカーを覗き込むと、「わあ〜」と言いながら娘の頭を優しく撫でました。そして「もう髪の毛ふさふさだねぇ〜」と言いながら抱いていた我が子を私に向けると、「うちの子なんて見てよ、まるでヒョウ柄よ」と顔を顰めました。
 確かに三塚さんの息子さんの頭には、いかにも色素の薄い毛が所々にしか生えていませんでした。それはヒョウ柄というよりも、抗がん剤の副作用か、若しくは放射能を浴びたチェルノブイリの子供達のように痛々しく、それを見せつけられた私は何と答えていいかわからないまま、慌てて「ウチの子もついこの間までは同じでしたよ」と笑って誤魔化したのでした。
 それで終わってくれれば良かったのですが、しかし、ママ友というのは、ひとつこの手の話題が出るとすぐに我が子を晒したがるものでして、すぐさま東さんがそれに便乗して来たのでした。

「ヒョウ柄ならまだましよ。うちの子なんてほら、まるで落ち武者よ」

 そう言う東さんの胸には、フランス製の抱っこ紐に括り付けられた六ヶ月の男の子がきょとんっとしていました。
 それはまさしく落ち武者でした。額から脳天へと半円に薄く、サイドの髪だけが妙に伸びていました。
 しかも東さんがそう言った瞬間、いきなり春の突風が公園を吹き抜け、その子供の両サイドだけに生えている髪がパラパラと風に靡き始めたため、まさにそれは四条河原に晒された侍の生首のように見えたのでした。

「まぁ、パパの遺伝だからしょうがないんだけどね」

 東さんが、そう苦笑いしながら醜い我が子を愛おしそうに抱きしめると、ひと呼吸置いて皆が一斉に柔らかく微笑みました。
 皆の気まずい笑いが穏やかな春風に包まれる中、ふと私の頭に、東さんの旦那さんの顔が浮かびました。
 東さんの旦那さんは額が大きく禿げ上がり、その名の通り『そのまんま東』でした。すると、そんな旦那さんの顔が浮かぶと同時に、以前、東さんがこっそり見せてくれた旦那さんの巨大なペニスの画像が頭に蘇り、不意に私の心臓を鼓動を速めたのでした。

 東さんがその携帯の画像を私に見せてくれたのは、今から二ヶ月ほど前の、まだ肌寒い二月の事でした。たまたま公園で二人きりになった私と東さんは、ジャングルジムの横のベンチに腰掛けながら、取り留めのない世間話をしていました。
 そのうち、ひょんな流れから話題は夜の夫婦生活の話となりました。東さんは俗欲的な表情を浮かべながら、私たち夫婦のセックスの回数や時間、そして体位など根掘り葉掘り聞いてきたのでした。
 最初は笑って誤魔化していた私でしたが、しかし、あまりにも東さんの尋問が執拗なため、「下の娘が生まれてからは月に二、三回あるかないかですね」と答え、体位や時間に関しては「その時々で違います」と言葉を濁したのでした。
 そんな話を深刻そうな表情で聞いていた東さんは、「月に二、三回で我慢できるの?」と、私の顔を心配そうに覗き込んできました。
 確かに、私の場合、出産してから約半年近くは異様に性欲が盛んになるため、月に二、三回のセックスでは満足できていませんでした。しかし、そんな事までママ友に話すのもおかしなものですので、私は「まぁ……なんとか……」と笑って誤魔化しますと、東さんは目を丸くさせながら「違うわよ、奥さんの事聞いてるんじゃなくて、旦那さんが我慢できるのかって聞いてるのよ」と笑い出したのでした。

 この東さんというママ友は、私よりも五つ年上の三十五歳でした。子供は、五歳の男の子と三歳の女の子、そして半年前に生まれた男の子の三人で、旦那さんは区役所に勤める役人さんでした。
 ママ友の中では、いつもみんなを笑わせてくれるムードメーカーでした。胸が大きくて全体的にぽっちゃりとした、いかにも緩そうな可愛い奥さんでした。

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 但し、いつも化粧が濃く、公園に来るだけでもわざわざ長い付けまつ毛とカラフルなマニキュアを施し、たとえ肌寒い日でも素足にミニスカートを履くという、お堅い役人の奥さんとは思えない派手な格好をしていましたので、ママ友の間では妬みと僻みが入り乱れ、様々な憶測が飛び交っていました。
 あるママ友は、東さんの旦那さんは役所を解雇されて失業中なのではないかと予想しました。別のママ友は、東さんは夜になるとキャバクラでバイトしているのではないかと予想し、またあるママ友は、東さんは結婚前に風俗嬢をしており、今の旦那はその店の常連だったのではないかなどと、何の根拠もない話を勝手に予想していたのでした。
 もちろんそれは東さんがいない所での単なる陰口であり、いくらそんな話で盛り上がっていても、東さんが公園にやって来るとその話はピタリと中断されるのでした。

 私たち夫婦のセックスが月に二、三回と聞いた東さんは、私の顔を覗き込みながら、「旦那さん、浮気してるんじゃないの?」と聞いてきました。
 夫の浮気など今まで考えた事もなかった私は、「それはないと思います」と即答しながらも、心の隅に不安の黒い影を過らせていました。
 そんな私の心を読み取ったのか、東さんは妙に深刻そうな表情を浮かべながら「気をつけた方がいいわよ……」と呟くと、ゆっくりと私から視線を反らし、公園の隅にあるカラフルなジャングルジムを見つめながら話を続けたのでした。

「私も最初はそうだったわ。あんなハゲ亭主が浮気なんかできるわけないと思っていたわよ。でもね、世の中には、あんな気持ち悪い男でもいいっていう物好きな女がいるもんなのよ……」

 そう言いながら東さんは一昔前のガラケーをパカッと開き、素早くピピピッと何か操作をすると、「見てよコレ」と言いながら私に携帯を向けて来たのでした。
 それは、旦那さんから届いたメールでした。「見てもいいんですか?」と私が戸惑っていると、東さんは「笑っちゃうわよ」と言いながらそれを私に手渡しました。

『坂下恭子さんへ
初めまして、私は本名を東祐介と申します。墨田区に住む三四歳の公務員です。
この度は、こんな私に御返事下さいましてありがとうございました。
つきましては明日の七時に渋谷でお待ち合わせするというのはいかがでしょうか?
尚、御希望の画像を添付しておきました。人に見せられるような大した代物ではございませんが、きっと恭子さんの御期待に答えられると思います。
御返事お待ちしております』

 そのメールを二度読み直した私は、「なんですかこれ?」と東さんを見ました。東さんは笑いを堪えるような表情を浮かべながら「馬鹿でしょ」と言いました。

「この馬鹿亭主、出会い系サイトで知り合った女に送ろうとしていたメールを、間違えて私に送って来てるのよ。しかもね、こーんな写真まで添付してんだから、もう本物の馬鹿としか思えないわ」

 そう笑いながらメールに添付された画像を東さんが開くと、画面には、二十センチは優にあろうかと思われる勃起したペニスが映し出されたのでした。

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「結構デカいでしょ」

 そう言いながら東さんは、私の手に開いたままの携帯を握らせました。私は手を震わせながらその画像に見入り、枯れた声で「これは……旦那さんの……」と呟くと、東さんは、「そうよ。旦那のチンポ」とケラケラ笑い出しました。

「おかしいと思ってたのよね。前の子の時はさ、妊娠中でも求めて来たくらいなのよね。例え私の体がセックスできない状態の時でもさ、しゃぶってくれるだけでいいからってしつこいくらいに求めて来たものなの。でも、今回の子の時は違ったわ。この子が生まれてからも全然求めて来なくなった。だからなんか怪しいぞって思ってたんだけど……まさか出会い系とはね……」

 東さんは戯けてガクっと肩を落とすと、恥ずかしそうに笑いながら、私の手から携帯を取りました。

「旦那さんは、そのメールを間違えて送ってしまった事を知ってるんですか?」

「当然知ってるでしょ。私に送った送信履歴も残ってるんだから……」

「旦那さんは、何も言って来ないんですか?」

「そんな事、自分の口から言えるわけないじゃない。だから私も敢えて何も聞かないでいるの。あんなハゲ男に私が嫉妬してるとでも思われたら癪だからさ、わざと知らんぷりして、浮気でも出会い系でも勝手にどうぞって態度してやってんの……ふふふふ……そしたらあいつビビっちゃってさぁ、虐待される子犬みたいに毎日脅えてるわ……」

 東さんはそう笑いながら携帯をバッグの中に仕舞うと、「でもね……」と遠くを見つめ、小さな溜め息を吐きました。

「それが原因で私たちは完全なセックスレスになっちゃったわ……あいつは外で抜いてるからいいだろうけど、逃げ場のない私は欲求不満が溜まるばかりよ……浮気でも出来る暇があればいいんだけど、小さな子供がいるとトイレに行くのだって大変でしょ、浮気なんて絶対無理だしね……」

 東さんは静かにそう呟きながら、切れ長の目をゆっくりと私に向けました。そしてミニスカートから伸びる素足の太ももを寒そうにスリスリと擦りながら、「だから安心しない方がいいわよ。旦那さんが浮気しないようにちゃんと見張ってなきゃね」と、少女のように微笑んだのでした。

 そんな東さんが、今、あの時と同じ少女の笑顔を浮かべながら、「まぁ、パパの遺伝だからしょうがないんだけどね」と、我が子の毛の薄さをネタにしていました。
 ここにいるママ友たちの大半は、二十代後半の比較的若いママたちばかりでした。三十代は私と三塚さんと、そして東さんの三人だけであり、その中でも東さんは私たちよりも五歳も年上だったため、一人だけ妙に浮いていました。
 それを自分でもわかっているのか、東さんはいつでも皆を笑わせようと、得意の自虐ネタで道化ておりました。裏では皆からウザいと嫌がられ、『色気違いババア』などというあだ名までつけられては、元風俗嬢だ現役キャバ嬢だと陰口を叩かれているのに、それでも東さんは、雨の日も雪の日も必ず朝一番に公園にやって来ては、皆が集まって来るのを待っているのでした。

(この人は……きっと淋しいんだ……)

 東さんの苦悩を知っていた私はそう思いました。だから余計、そんな東さんの道化た姿が痛々しく思え、いつも私は東さんを見る事さえ耐えられなくなるのでした。

 そんな残酷な笑いの中から逃げ出すように、ベビーカーをスーッと後ろに引いた私は、そのままベビーカーの横に腰を下ろしました。そして鼻水など全然出ていない娘の鼻を、あたかも鼻水が出ているかのようにティッシュで拭ったりしながら、その輪の中から抜け出したのでした。
 これ以上、東さんの道化を見るのは心が痛く、私は何とかこのまま自然な形で帰れないものかと考えていました。
 しかし、そんな私の気も知らず、頭上は更に盛り上がる一方でした。皆が笑ってくれる事に気分を良くしているのでしょう、東さんは自虐ネタを更にエスカレートさせ、機関銃のような毒舌トークで皆を笑わせているのです。
 もちろん皆は、東さんのその自虐ネタが面白くて笑っているのではありません。東さんを馬鹿にして笑っているのです。それを一番良く知っていた私は、その場にしゃがみ込んだまま、おもわず両手で耳を塞いでしまいました。
 たちまち風の音が籠もり、頭上から聞こえる皆の笑い声は、まるで水の中で聞いているかのようにわんわんと響いていました。
 聴覚が遮られると五感が敏感になる錯覚に囚われるらしく、地面を這う蟻の足音が聞こえたような気がしました。
 それと同時に、何やら嫌な視線を感じました。どうせ錯覚だろうと思いながらソッと顔を上げると、三メートル幅の遊歩道を挟んだ真正面のベンチの下で、濁った二つの目玉がギョロリと動くのを発見したのでした。
 最初は、ベンチの下に死体が押し込められていると思い、一瞬心臓が止まりかけました。しかしよく見るとその人は生きており、ベンチの下に潜ったままゴソゴソと動いたりしていました。
 あんな所でいったい何をしているんだろうと目を凝らしてみると、その人が、例のホームレスだという事に気付きました。
 男は、私と目が合うなり一瞬ニヤリと笑いました。そしてその目をギラギラさせながら、そのままソッと視線を落しました。
 そんな男の視線の先を、私は嫌な予感を感じながら恐る恐る辿ってみました。視線の先に辿り着いた瞬間、おもわず私の足の指が十本同時にギュッと縮みました。
 そうです。なんとあの男は、わざわざベンチの下などに潜り込みながらも、しゃがんでいる私のスカートの中を覗いていたのです。

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 怖くなった私はすぐさま立ち上がろうとしましたが、しかしあまりの恐怖で、思うように膝に力が入りませんでした。
 どうしよう、どうしよう、と焦りながらも、ベビーカーのパイプをギュッと握る事しか出来ず、私は堂々とスカートの中を覗かれてしまっていたのでした。
 しかしそのうち、何やらおかしな気分がモワモワと湧いて出てきました。見ず知らずの男にスカートの中を覗かれているというこの状況が、じわりじわりと性的興奮を呼び起こしてきたのです。

 見せたい……
 あの男にもっと見せてみたい……

 そんな狂気じみた衝動に駆られながら、私はしゃがんだ股間をゆっくりと弛めました。股間をすり抜ける春の風がお尻を撫で、股間に突き刺さる男の視線に胸がムカムカと熱くなり、小さな溜め息が断続的に溢れました。
 私は濡れていました。股間に食い込むクロッチが冷たくなっているのがわかりました。今にその汁がクロッチに染み込み、その中心に丸いいやらしいシミを作っては、あの男に私の陰部が濡れている事がバレてしまうのだと思うと、この場で下着の中に指を入れ、おもいきり穴の中を掻き回したいという異様な衝動に駆られました。

 項垂れる私の顔を娘が不思議そうな顔をして見ていました。
 それに気付いた三塚さんが、ベビーカーに凭れながら項垂れていた私に「どうしたの?」と聞いてきました。
 一瞬にして皆の笑い声が消えました。焦った私は素早く股を閉じ、「大丈夫。ちょっと目眩いがしただけ」と、慌てて姿勢を元に戻すと、ふと東さんと目が合いました。
 なぜか東さんは凄い形相で私を睨んでいました。そのギョッと見開いた東さんの目がゆっくりと移動し、ベンチの下に隠れている男を捕らえたその瞬間、一瞬男の表情がニヤリと弛んだのを私は見逃しませんでした。

 皆が私に「大丈夫ですか」と声を掛け始めました。私は慌てて「もう大丈夫です、いつもの貧血ですから」と取り繕っていると、突然ママ友の一人が「キャッ!」と小さな悲鳴を上げ、皆が一斉にその方向に顔を向けました。

「またあの男よ!」

 ママ友の誰かが叫びました。その声と同時に男はベンチの下から抜け出し、まるで『警察24時』のワンシーンのように一目散に逃げ出したのでした。
 ママ友たちが一斉に騒ぎ始めました。それまでの東さんの自虐ネタは一瞬にして消し去られ、ママ友の輪の中はあの男の話題で持ち切りになりました。
 私はソッと立ち上がりながら、ふと東さんを見ました。東さんはその話題に口を挟みませんでした。あれだけお喋りな東さんが、何故か妙に狼狽えながら、ジッと黙ったまま傍観しているだけでした。
 そんな東さんが、まるで人気若手芸人の勢いに飲み込まれたダチョウ倶楽部のように見えました。私はその酷く哀れな東さんの姿に、激しく胸を締め付けられたのでした。

(つづく)

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