堕落のアッコちゃん(19)
2013/05/30 Thu 17:30
「いってきまーす……」
そう玄関のドアを開けたものの、部屋の中からは、「いってらっしゃーい」という声は返って来なかった。
廊下に出ると、朝のキラキラした日光と、春の穏やかな風が優しく迎えてくれた。
カードキーを財布から取り出しながらドアに振り返ると、ゆっくりと閉まるドアの隙間から、リビングへと伸びる長い廊下が見えた。
廊下の突き当たりにある巨大なFIX窓には、真っ青な空に聳え立つ真っ赤な東京タワーが輝いていた。
明子はもう一度、窓に映る東京タワーに向かって「いってきます」と囁くと、静かにドアを閉めたのだった。
この春から明子は、東麻布にある高級マンションで一人暮らしを始めていた。
そのマンションは、あの事件があった直後、滞在先のロンドンから急遽帰国した父親が、明子から事件を忘れさせようとして購入してくれたものだった。
そうせざるを得ないくらい、あの事件は騒がれた。
町で評判のお嬢様が廃墟となった地下道に監禁され、縄で縛られた挙げ句に集団レイプされたとなれば、町中が大騒ぎになるのも当然だった。
さっそく下品な週刊誌の記者が町中を嗅ぎ回り、明子の私生活や人間性について根掘り葉掘り調査し始めた。ネットでも散々騒がれ、『2ちゃんねる』ではこの事件関連のスレがいくつも乱立し、連日のように下衆で卑猥なコメントで埋め尽くされていた。
そんな世間の仕打ちに、明子はたちまち塞ぎ込んでしまった。
事件後、一歩も外に出られなくなってしまい、当然、学校や塾へも行かなくなってしまった。
毎日のように、松崎や夏美といった学校の友達から励ましのメールが届いていたが、しかし明子は、それさえも返信できないくらい落ち込んでしまっていたのだった。
このままでは、東大合格どころか明子自身がダメになってしまうと思った両親は、心機一転させる為に明子にマンションを買い与える事にした。忌々しい地元を離れ、新たな地で一人静かに受験勉強させてやろうと考えたのだ。
場所は、都内でもトップクラスの麻布周辺に決めた。麻布は各国の大使館がひしめき合っている事から治安も良く、緑豊かな大きな公園も点在しているため環境にも良かったからだ。
すると、丁度その頃、、東麻布のキューバ大使館の近くに、新築マンションが売りに出されていた。
22階建ての最上階。20帖のリビングからは芝公園が一望でき、東京タワーが真正面に聳え立っていた。間取りも4LDKと広く、週に三回、掃除や洗濯にやって来る母が泊まる事もできた。
価格は8800万円だった。売り出された直後だったせいか価格はやけに強気だった。
しかし、一刻も早く娘を楽にさせてやりたかった父は、価格を値切る事なく即金で購入した。随分と高い買い物だったが、将来有望な一人娘を失くす事を考えれば安い買い物だと父は思ったのだった。
そんな父のおかげで、クリスマス前に引っ越す事ができた。
まだ冬休み前だったが、しかし年明けからはどうせ自主登校になるため、学校は、特別に明子だけ一足早い自宅学習期間という処遇にしてくれた。
今までの明子の優秀な成績や、悲惨な事件内容から考慮し、このまま学校に来なくとも卒業できるように校長が計らってくれたのだった。
こうして地獄のような毎日から脱出できた明子は、誰に監視される事なく、朝から晩まで東京タワーを眺めて暮らした。クリスマス時期の東京タワーは幻想的にライトアップされ、その美しさは地獄のような日々をジワリジワリと忘れさせてくれた。
そんな一人暮らしの毎日は、今までの生活とは一転し、実にのんびりと過ぎて行った。
昼までベッドでゴロゴロしていても、風呂上がりに全裸でテレビを見ていても自由だった。当然、誰に気にする事なく存分にオナニーをする事もできた。
そんな状況ではあったが、しかし、あの日以来、明子は変わった。
あの時、あの薄暗い地下道で、自分の耳からあの黒い魔物がすり抜けて行ったのを見た時から、明子の脳に例の黒い渦は現れなくなっていたのだ。
堕落。
明子はあの黒い渦をそう呼んでいた。
あの黒い渦が脳に出てくる度に罪を犯し、魂が汚れ、肉体が醜くなっては、精神が下劣になっていた。
あの時の自分は、まさに堕落そのものだった。
優等生から変態少女へと真っ逆さまに転がり、そして獣のように本能の赴くまま過ごした結果があの仕打ちであり、明子は堕落の底まで落ちてしまったのだった。
しかし、明子は今、堕落の底から這い上がろうとしていた。
何もかも忘れ、一人静かに東京タワーを眺めて過ごしていると、いつしか、あの黒い渦は現れなくなっていた。
しかし、いつ突然、黒い渦が現れるかと思うと怖くて堪らなかった。それはまるで余震に脅える被災者のようであり、明子の胸には常に黒い渦の不安がつきまとっていたのだった。
そう脅えながらも、ひたすら廃人の如く気配を消し、死んだようにひっそりと過ごしていた。おかげで黒い渦は前兆すら現れなかった。
そんな穏やかな日々が続いていたある日の夜、なかなか寝付けない明子は、ベッドに潜ったままテレビをつけた。
暗い部屋にテレビの明かりが広がった。偶然にも大好きだった小野リサが弾き語りをしていた。
今まで全く音のなかった部屋に、小野リサの透き通った歌声が優しく流れた。
脳が宙に浮くかのように心が癒された。聞き覚えのあるその曲はボサノヴァ風にアレンジした『星に願いを』だった。
そんな画面の右端には『クリスマス・ライブ』と書かれていた。そこで初めて、今夜はクリスマスイブだったと気付いた明子は、ベッドから手を伸ばし、ソッとカーテンを開いてみた。
青くライトアップされた東京タワーが真正面に見えた。
真っ暗な夜空から真っ白な粉雪がパラパラと舞い、小野リサの歌声と共に幻想的な世界を作り上げていた。
いつしか、窓の外を見つめる明子の目から涙が溢れ出していた。その涙は、胸の中にこびりついていた不浄な汚れを洗い流してくれているようであり、思う存分涙を流すと、妙にスッきりとした気分になった。
その瞬間、今まで散々痛めつけられてブヨブヨになっていた明子の脳がはっきりと覚醒した。
(このままではいけない……)
そう自分に呟きながらベッドから抜け出すと、そのままリビングへと向かった。
リビングの隅に、引っ越しした時のままの荷物が、段ボールに詰められて並んでいた。その中から参考書類の一切を引きずり出すと、それをダイニングテーブルの上に並べた。
(受験まであと二ヶ月……)
そう呟きながら教科書を開いた。
それは、明子が堕落の底から這い上がった瞬間だった。
元々頭が良かったせいか、明子は一度堕落の底に落ちていながらも、いとも簡単に東大の法学部を合格してしまった。
皆が度肝を抜かれた。今年は何も考えずにのんびりして来年頑張ればいいさ、と言っていた両親は涙を流して喜び、いつも励ましのメールを送ってくれていた松崎や夏美、そして学校中のみんなも狂ったように喜んでくれた。
明子は完全に黒い渦から抜け出した。
堕落していた日々がまるで嘘のように、明子は今まで以上の明るさと元気を取り戻していた。
そんな明子だったから、やっぱり東大に行っても目立った。
入学早々、キャンパスで男子学生達に捕まり、またしても『新入生美人コンテスト』などという大会に無理矢理エントリーされては、ダントツの1位で優勝してしまったのだった。
しかし、学校内で明子の人気が高まるにつれ、その妬みと僻みから明子を中傷する者が現れた。
ある時、各サークルが運営しているネットの掲示板に、『水野明子は集団レイプの被害者だった』という記事が書き込まれた事があった。又、当時の三流雑誌の記事が画像掲示板に掲載され、その生々しい内容をコピーした長文までもが、何者かによって投稿されたりした。
だが、幸いな事に誰一人としてそれを信じる者はいなかった。逆にそんな誹謗中傷に対して怒りを感じている者のほうが多く、デタラメな記事に同情された明子の人気は益々高まって行くばかりだった。
周りのみんなが「気にするな」と言ってくれた。「芸能界でも人気者はみんな中傷されてるじゃん」と励ましてくれた。
しかし、そう言われる度に明子の胸は締め付けられた。それはまるで黒い魔物に心臓を鷲掴みにされたような感じであり、その度に明子は黒い渦の再来に脅かされていたのだった。
そんな頃、点けっぱなしになっていたテレビの画面に、ふと見覚えのある風景が映っていた。
それは朝のワイドショーだった。マイクを持ったレポーターが向かう先には、田添神社の真っ赤な境内が貪よりと浮かんでいた。
朝のミルクを飲んでいた明子の手が止まった。
見たくない。
見ちゃダメ。
そう必死に自分に言い聞かせながらも、それでも指はリモコンに伸びた。
消音のボタンを押した瞬間、レポーターの男が、じゃり、じゃり、と神社の玉砂利を踏みしめる音がスピーカーから流れた。
「……その後、言葉巧みに連れ去られた唯子ちゃんは、この神社の裏手にある、あの公衆便所に連れ込まれました」
雑草に埋もれた公衆便所が画面に映し出された。
朽ち果てたコンクリート壁と割れたガラス。そして錆びたトタン屋根の上には、まるでそこを守護しているかのように一匹のカラスが止まっていた。
一刻も早く記憶から消去したい風景だった。しかし、どれだけ頑張っても絶対に忘れられない風景でもあった。
公衆便所の前には、『立ち入り禁止』と書かれた黄色いテープが張られていた。
レポーターは、そのテープの前で足を止めると、実に悲観した表情でゆっくりと背後を指差し、静かに言った。
「そして唯子ちゃんは、激しい性的暴行の末、あの便所の汲取式便器の穴の中に押し込められ、殺害されてしまったのです……」
瞬間、明子の背筋がスッと凍った。
これは見ちゃいけない……
これを見てしまったら、また……
そう慌ててテレビを消そうとしたが、しかし指が震え出し、リモコンを掴む事すらできなくなってしまったのだった。
(最終話へつづく)
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