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蠢女13(鬼ごっこ)

2012/12/02 Sun 00:01

13蠢女





「どこ行くの? もうすぐ、トモダチ来るよ?」

 ドアを半分開けたままの私は、ヤンの顔を見つめて固まっていました。
 このままここを飛び出し、どうやって外に逃げ出すか、その経路を必死に頭に描いていました。
 するとヤンは私が握っているDVDに気づきました。「それは何?」と言いながら首を傾げてDVDを見つめています。
 ヤンは、私が走り出すのを恐れているのか、その場から一歩も動こうとはせず、ジッとDVDを見つめています。
 私の背後から注ぎ込む明け方の光が、薄暗い廊下に立つヤンの足下を青く染めていました。
 身動きせぬまま向かい合う二人の間には、ビルの屋上に立っている自殺願望者と、微妙な距離を保ちながら必死に説得している刑事のような、そんな緊迫した空気が張りつめていました。

「それ……私のDVD。とっても大切。返せ……」

 ヤンの目は座り、言葉も急に厳しくなりました。
 そんな微妙な変化に危険を感じた私の足が、無意識にジリッと後ずさりました。
 すると、そのジリッという音でスイッチの入ったヤンが、突然牙を剥きました。

「○○○! ○○、○○○!」

 母国の言葉でそう叫んだヤンがドッと突進してきました。
 私はドアを思い切り閉めました。そしてバッと走り出すと、ヤンがドアに追突したのか、鉄扉の凄まじい振動音が背後で響きました。
 貪よりと湿ったコンクリートの廊下が青く染まっていました。私はその青く染まる空間を全速力で走り出しました。
 エレベーターまでは約二十メートル、非常階段までだと約三十メートルありました。あのエレベーターのガタガタとのろい扉の開閉を考えると、たとえカラスの大群がいようと非常階段のほうが確実そうでした。が、しかし、非常階段だと追いつかれてしまう可能性があります。
 そうあれこれ考えながら必死に走っていました。今にも後ろからドンっと体当たりされそうな恐怖に駆られながら、唸りを上げて走りました。
 エレベーターが見えてきました。が、しかし、エレベーターは一階で止まったままでした。そのままエレベーター前を走り抜け、十メートル先の非常階段に向かいました。
 そして非常階段へと続く角を曲がる瞬間、私の視野にヤンの姿がパッと映りました。
 しかしヤンのその姿は、私のすぐ真後ろではありませんでした。
 ヤンの姿は、まだ部屋の前だったのです。

 非常階段の踊り場で一瞬足を止めた私は、部屋の前に立つヤンと目が合いました。
 ヤンはジッと私を睨んだまま、黒い携帯をソッと耳に当てました。そんなヤンの鼻からは鼻血がタラタラと流れています。
 私はヤンを見つめながら呼吸を整えました。この非常階段の踊り場のすぐ下には数百羽のカラスが待ち受けているのです。今からそこに突入しなければならないのです。
 私は真正面からヤンを見つめたまま、一歩一歩慎重に階段を下りました。
 パタンっと携帯を閉じたヤンは大きく背伸びをすると、そのまま廊下の手すりに凭れかかり、私を見下ろしながらニヤニヤと笑っていました。

 赤錆だらけの階段は、おもいきり踏み込めばバキッと割れてしまいそうなくらい危険でした。私はDVDのケースを口に挟むと、それを銜えたまま両手で手すりにしがみつきました。そして、歩行のリハビリをするようにして、手すりに体重をかけながらゆっくりと下り始めたのでした。
 もし、今、ヤンがこちらに向かって走って来たらどうしよう。そんな恐怖に襲われながらヤンをジッと監視し、一段一段ゆっくりと進みました。
 すると、突然ヤンが私に携帯を向けました。ニヤニヤと笑いながらその黒い携帯を私に向けたのです。
 ヤンのその仕草はいったい何を意味しているんだろうと、不気味に思いながらもう一段下りようとした瞬間、「パン!」と乾いた音が響き、私の足下にパッと火花が散りました。
 そうです、ヤンが私に向けていたのは黒い携帯ではなく、黒い拳銃だったのです。
 ヤンは、ニヤニヤと笑いながら立て続けに「パン、パン、パン」と三発撃ちました。その弾全てが錆びた鉄板を通過し、私の足下に三つの穴を開けました。
 私のすぐ真下では、それに驚いたカラスが騒ぎ始めました。一斉に鳴き始めたカラスの叫び声が、ビルとビルに挟まれた空間に谺し、凄まじい音の塊となって私の脳を揺すぶりました。
 すると、そんなカラスの鳴き声に押し出されたかのように、黒ずんだコンクリートのビルの中から、突然無数の黒い影が這い出してきました。黒い影は各階の廊下をざわざわと這い回り、天井や壁に張り付いては、隣のビルの壁に飛び移ったりしています。それは、土の下の巣を暴かれた大量のイモリが一斉に逃げ出すような、そんな光景でした。
 再び、「パン!」と乾いた音が響き、私がしがみついていた手すりのすぐ前で火花が散りました。
 その音と同時に一斉にカラスが飛び立ちました。すぐ真下から黒い巨大な塊がバサバサと音を立てながら空に向かって昇って行きます。
 すると、壁を這い回っていた黒い影たちが、そんなカラスに飛びかかりました。
 それは不思議な光景でした。次々にカラスに飛び移る黒い影たちが、飛び立つカラスの体の中にスッと入り込んでしまったのです。

『カラスは不吉だ。カラスには魔物が取り憑いている』

 ふと、山の上の精神病院で聞いた言葉を思い出しました。そう呟いていたのは四十を過ぎた拒食症の中年女で、骸骨のようにガリガリに痩せた彼女は、まるで死神に取り憑かれたような目をしながら、いつも病院の中庭に集る数匹のカラスを見てはそう呟いていました。
 
「パン!」

 その音でハッと我に返った私は、太ももに火傷のような痛みを感じました。見ると、弾が擦ったのか太ももには五センチほどの赤い線がスパっと走っていました。
 これがまともに太ももに当たっていたらと思うとゾッとしました。
 そのゾッとした感覚は背中だけではなく首や尻や頬にまで走り、たちまち狂乱した私はその危険な非常階段をおもいきり走り出したのでした。
 ぎゃゃゃゃゃゃゃゃゃゃゃゃゃゃ、っと腹の底から叫びながら一心不乱に駆け下りました。いつ底が抜けるかわからないという恐怖と、撃たれるかも知れないという恐怖に背中を押されながら、転がり落ちるようにして階段を駆け下りました。
 いくつかの踊り場の角を曲がり、やっと地面が近づいて来た時、ふと私はヤンを見上げました。
 ヤンは八階の廊下からジッと私を見下ろしていました。彼の手には既に拳銃は握られていませんでした。
 遂にヤンが諦めた。そう思った私は、その安心感からか、悲鳴を上げながらも顔は笑っていました。
 そして、涙と鼻水でぐしゃぐしゃに顔を腕で拭いながら二階の踊り場を曲がろうとすると、その顔は一瞬にして凍り付きました。
 一階の非常階段の出口に巨大な男が立っていました。
 私は、慌てて二階の廊下で足を止めました。するとその音に気づいたのか、男がヌッと見上げました。
 そんな男の顔には刺青が彫られていました。もはや何がなんだかわからないくらい、いろんな刺青が顔中に彫りまくられていました。
 私は息を飲みながら、見上げた男の顔を見ていました。あまりにも刺青がごちゃごちゃしているため、男の目がどこにあるのかわからず、男が私に気づいているのかどうかもわかりませんでした。

 きっと、ヤンのさっきの電話は、この男にしていたのだろうと思いました。ヤンはこの大男に「下で捕まえろ」と携帯で指示していたため、あんなに余裕があったのです。
 私は、男の顔を見つめたまま、このまま二階の部屋のどこかに忍び込み、窓から大通りに飛び出すしかないと、咄嗟にそう思いました。
 そして、息を殺したまま方向転換しようとソッと後ずさった時、刺青だらけの顔の中に、ギロッと動いた小さな目を発見したのでした。
 男に睨まれた私は、まるで蛇に睨まれたカエルのように足が竦んでしまいました。
 男の額には『犬』と彫られていました。右頬には『殺』と彫られ、そしてなぜか左頬には『埼玉』と彫られていました。
 そんな文字の周りには、極彩色の蛇や龍がとぐろを巻き、その隙間には、『梵字』がびっしりと埋め込まれていました。
 男は私をジッと睨みながら、『★』が彫られた鼻の頭をゆっくりとと腕で拭いました。そんな男の手には巨大なサバイバルナイフが握られていました。そしてその腕にも何が何だわからない極彩色の刺青がびっしりと彫られ、凶器のような太い腕が更に凶暴に彩られていました。
 確実に殺される。
 そう呟いた私は、この凶暴な男に捕まれば秒殺で殺されると確信し、息を大きく吸いました。
 すると、ヴィィィィィィィというエンジン音が私のすぐ後ろで響きました。見ると、いつの間にか上に昇っていたエレベーターが下りて来ているのです。
 ヤンが来る。
 そう思った瞬間、竦んでいた私の足が動きました。ザッと二階の廊下を走り出すと、非常階段からドンドンドンという凄まじい振動音が鳴り出しました。巨大な刺青男が非常階段を駆け上っているのです。

 私は、ひゃあ! ひゃあ! と情けない悲鳴を上げながら、廊下にズラリと並ぶ鉄扉のドアノブをひとつひとつ回して走りました。ひとつでも鍵が開いていればそこに飛び込み、部屋の窓を突き破って大通りに飛び出すつもりでしたが、しかし、どの鉄扉も鍵がかかっています。
 そうこうしているうちに、大男が廊下に飛び出して来ました。大男は母国の言葉で何か叫ぶと、サバイバルナイフをグワングワンと振り回しながら突進してきました。
 きゃゃゃゃゃゃゃゃゃゃゃゃゃ! と絶叫しながら私は走り出しました。もはやひとつひとつドアノブなど捻っている暇はなく、ただただ漠然と走るしかありません。
 しかし、少し走ると、すぐにコンクリートの壁に突き当たってしまいました。
 もう逃げ場どこにもありません。
 慌てて振り返ると、突進して来る大男の後ろにヤンが立っていました。ヤンは私にバイバイと手を振ると、その手の親指をキュッと立て、それを首元にあてると、サッと首を引いて笑いました。

 私は悲鳴を上げながら、意味もなくその場で三周回りました。
 そして、ダメ元で手前の部屋の鉄扉に突進し、絶叫しながらドアノブをガチャガチャと回しました。
 すると、鉄扉はスッと開きました。
 ああああああああああ! と泣き出した私は、慌てて扉の隙間に滑り込みました。
 その瞬間、間一髪で私のすぐ後ろを、サバイバルナイフを振り回した大男が通り過ぎて行きました。大男はコンクリートの壁に激突しましたが、しかし、その反動ですぐに戻ってきて、そのまま半開きの鉄扉のドアノブを掴みました。
 鉄扉の隙間から刺青だらけの顔が覗き、「あがぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」と獣のように唸りました。男の前歯は全て金歯で、色の悪い舌にはパチンコ玉のようなピアスが突き刺さっていました。
 おもわず私は、持っていたDVDで男の顔を刺しました。
 それはもはやヤケクソの抵抗でしたが、しかし、そんなDVDのプラスチックのケースの角が、見事に男の目に命中したのです。
 男は一瞬、「わあっ!」と怯みました。男が後ろに仰け反ったその隙に、私は鉄扉を素早く閉め、そして鍵をカタン! と掛ける事に成功したのでした。

 すぐに鉄扉はガンガンと鳴り響きましたが、さすがの大男とはいえ、この鉄扉をぶち抜く事はそう簡単にはできません。
 しかし、安心してはいられませんでした。私が逃げ込んだここは、なんと部屋ではなく階段だったからです。
 すぐにヤンが来るだろうと思いました。一刻も早くこの階段を下りなければと焦りました。
 埃だらけのコンクリートの階段を二段飛びで駆け下りました。一階に降り、鉄扉を開けようとすると、非常階段で一階に下りたらしいヤンが、何か叫びながらこちらに向かって走って来るのがわかりました。
 私は慌ててその鉄扉に鍵をかけました。そして慌てて辺りを見回しました。
 その階段はまだ続いておりました。その貪よりと黒ずんだコンクリートの階段は、地下にまで伸びていたのです。
 
(このビルの地下で散々痛めつけられ、犯されて、ビデオを撮られた挙げ句、私はガソリンをぶっかけられて焼かれたんだ)

 ふと、そんな火傷女の言葉が浮かびました。
 この階段は、火傷女が言っていたその地下に繋がっていたのです。

 突然、背後の鉄扉が、ドンドンドン! と響きました。

「開けろ! お願い! 殺さない、許してあげる、だから開けろ!」

 鉄扉の向こうから、ヤンの猫なで声が聞こえてきました。
 ヤンのそのわざとらしい声と、さっきDVDで見た、子供の目の前で犯され焼き殺された女の姿がかぶり、突然激しい怒りを感じた私は鉄扉に向かって叫びました。

「このDVDを警察に持って行ってやる! おまえの事も、このビルの事も、全部警察に話してやる!」

 するとドンドンと響いていた音がぴたりと止まりました。
 鉄扉の向こうで「ふーっ……」というヤンの溜め息が聞こえました。

「それは絶対にいけない。やめたほうがいい。我々の組織は世界各国にある。警察の中にもいる。あなた、逃げられない、必ず殺されます」

「うるさい!」

 そう叫びながら私が鉄扉をガン! と蹴飛ばすと、階段の上からも、同じ、ガン! という音が聞こえてきました。
 恐らくあの大男です。大男はヤンの指示で三階に向かったに違いありません。そして三階のこの階段から、ここに下りて来ようとしているのです。
 激しい恐怖に襲われた私は、階段を駆け下りて来る足音に悲鳴を上げながら、地下へと続く階段に飛び込みました。

 真っ暗でした。窓のない地下階段は真っ暗で何も見えませんでした。
 私はコンクリートの壁に張り付きながら、必死に階段を降りました。すると、壁を這っていた指がスイッチらしき物を捕らえました。
 私は迷う事なくそのスイッチを入れました。
 天井から吊るされていた裸電球がパッと点きました。
 その地下室は、畳にして三十畳はあろうかと思われる殺風景な空間でした。
 壁の隅に色々な物が置かれておりましたが、それら全てにシートが掛けられ、それが何かはわかりません。
 しかし、私にはこの天井から吊るされている裸電球に見覚えがありました。それは、あの精神病院の鎮静房と同じ裸電球だったため、はっきりと覚えていたのです。
 そうです。その裸電球は、あのDVDに映っていた地下室にぶら下がっていた物と同じでした。
 という事は、やはりこの地下室は、ほぼ間違いなく、あのDVDの地下室なのです。

 私は、その貪よりとしたコンクリート壁を見て戦慄を覚えました。
 ここで無惨に殺されたあの女の焼け爛れた顔が鮮明に浮かび上がって来たのです。
 しかし、そんな所で立ちすくんでいる暇はありませんでした。大男の足音はだんだんと近づいて来ているのです。
 私はそのまま地下室に飛び込むと、そこに置いてあった小さなパイプ椅子を振り上げ、その裸電球を叩き割りました。
 もはや逃げ場はありません。この地下室は完全に行き止まりになっているのです。
 だから電球を割りました。少しでも、一分一秒でも長く生きる為の時間稼ぎにここを暗闇にしました。

 地下室が真っ暗になると、ふと、奥の壁に小さな光を見つけました。
 私は迷う事なくその小さな光に向かって走り出しました。埃と油と血なまぐさい匂いを感じながら、私は闇の中を駆け出したのでした。

(つづく)

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