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蠢女9(カラス)

2012/12/02 Sun 00:01

9蠢女



 白いワンボックスカーは、いくつかの路地を抜けました。
 細い路地の角に、いかにも終戦直後から営業してそうなボロボロの焼肉店が見えました。バラックのような小さな建物からは、ボヤと見間違えそうなほどの白い煙がモクモクと溢れ、狭い路地を真っ白にしていました。
 焼肉屋の角を曲がり、車一台がやっと通れるほどの更に細い路地に入ると、売春婦らしき外国人女性達が数人、一般民家のコンクリート塀に背をもたれながら煙草を吹かしていました。
 ゆっくりと通り過ぎるワンボックスカーの中を彼女達が覗き込んできました。窓には、異国人たちの青や黒や茶色に光る目玉がギロギロと蠢き、まるでサファリパークのらくだのようでした。
 駐車場からわずか五分程で車は止まりました。
 長い髪の女がガラガラガラっと後部ドアを開け、私たちはそこに下ろされました。
 「私、車止めて来ます。ゆっくりトイレして下さい」
 女たちからヤンと呼ばれる男は、運転席の窓から私にそう微笑むと、その先にある月極駐車場にワンボックスカーを滑り込ませたのでした。

「こっちよ」
 長い髪の女は、私にそう言いながらビルの隙間の真っ暗な通路に入って行きました。
 そのビルは十階建て以上の大きな雑居ビルでした。一階の店舗には『福建省武夷山漢方薬』と書かれた大きな看板が掲げられていました。その横の真っ暗な通路は、その店の漢方薬の匂いと思われる独特な臭気が充満しています。
 その匂いをどこかで嗅いだ事があると思っていると、急に通路が途切れ、ビルの真裏に出ました。
 そこは、四つのビルに囲まれた空き地でした。そこには背丈ほどもある雑草が生い茂り、その真ん中には、『别扔掉垃圾』と、中国語で書かれた看板がポツンと立っていました。何と書いてあるのかわかりませんが、その隣には『ゴミ捨てるな』と、日本語で書かれた看板がある事から、恐らく同じ意味でしょうが、しかし、その雑草の中はゴミだらけでした。
 四つのビルの背中には、錆びた非常階段が夜空に向かって聳え立っていました。月の明かりに貪よりと照らされた非常階段は、まるで廃工場で剥き出しにされた鉄骨のような迫力でした。
 そんな、四方をビルの裏に囲まれたその窪みには、唯ならぬ邪気が漂っていました。あの歌舞伎町の赤いアーチを潜った時に感じた以上の寒気が私の背筋に走ったのでした。

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  髪の長い女は、非常階段の下にある入口に入ると、そのままヒールの底をカツカツと鳴らしながら薄暗い廊下を進んで行きました。
 薄暗い廊下には、非常出口の緑色の看板と、あと数日で切れるだろうと思われる黄色く変色した蛍光灯が一本あるだけでした。まるで消灯後の古い病棟の廊下のように気味悪く、そして淋しい廊下でした。
 長い髪の女と中国女が、エレベーターの前で足を止めました。五階で止まっていたエレベーターが下りて来る間に、中国女は廊下に三回ツバを吐きました。
 エレベーターが到着し、ガタガタと不穏な音を鳴らしながら扉が開きました。
 全体的に黄ばんだエレベーターの箱の中には、セーラー服を来た女学生がポツンっと立っていました。
 たちまち違和感を感じました。こんな時間にセーラー服を着た女学生がいるはずがないのです。それに、普通ならば下りる方を優先するはずなのに、長い髪の女と中国女は、その女学生がまだ中にいるにもかかわらず、ずかずかとエレベーターの中に入って行ったのです。
 私は怖くて足が竦んでしまいました。二人の後ろで項垂れている女学生の黒髪を見ながら、エレベーターの手前で震えていました。

「何してんの。早くしてよ……」

『開』のボタンを押していた長い髪の女が、イライラしながらそう言いました。それでも動かない私をギッと睨んでいた中国女が、床にペッとツバを吐きました。すると長い髪の女が「汚ねぇからツバ吐くなって!」と怒鳴り、そしてその勢いのまま「トイレに行きたいんだろ、早くしろよ!」と私に怒鳴りました。
 私はおもわず「はい」と返事をすると、慌ててエレベーターに乗り込んだのでした。

 狭いエレベーターの中では方向転換をする事ができませんでした。扉に背を向けて乗り込んでしまった私は、正面を向いて並んでいる二人と向かい合わせになってしまいました。一瞬、気まずい空気が流れ、私は素早く二人の肩の間に顔をズラしました。
 二人と向かい合わせになるのは避けられましたが、しかし、私のすぐ目の前には女学生の頭が迫っています。
 そんな女学生の黒髪は、ローションを垂らしたようにネトネトに濡れ、魚の腐ったような匂いが漂っていました。
 エレベーターが上がって行くのに連動しながら、項垂れていた女学生の顔もゆっくりと上がってきました。
 女学生の顔が正面を向きました。私の顔と彼女の顔との隙間はわずか三十センチです。
 女学生はジッと私の目を見つめていました。やはりその目も、先ほどのフィリピン女と同様、ぴくりとも動きしません。が、しかし、彼女は息をしておりました。セーラー服の肩が、その呼吸にあわせて微かに上下し、彼女の生暖かい息が私の顔面にはっきりと感じられました。そんな彼女の息は、真夏の棺桶の中のような死臭がしました。まさに、このエレベーターに乗った瞬間に嗅いだ、あの魚が腐ったような匂いでした。
 まるで生きた人形のようでした。きっと生きたまま蝋人形にされるとこんな感じになるのでしょう。
 そんな女学生と真正面で目を合わせていた私の体が、更に震えてきました。すると天井から「チン!」っというチャイムが聞こえました。ガタンっと大きな振動とともにエレベーターが止まり、ガタガタガタっと鈍い音を立てながら扉が開きました。
 と、その時、ピタリと閉じていた女学生の唇が少しだけ開きました。そして二人がスッとエレベーターを下りると同時に、女学生は木人形のような目をジッと固定させたまま「お父さん助けて……」と呟いたのです。
 その声は、古いレコード盤の回転数をスロー再生させたような恐ろしい声でした。
 私の太ももに、生暖かい感触がゆるりと走りました。私は呆然と立ちすくんだまま失禁していたのでした。


「あんた、頭、ユルいやろ」

 錆びた鉄扉の前で、髪の長い女がドアの鍵を開けながら、失禁してしまった私を睨みました。そのドアは、まるで昭和のオイルショック時代に建てられた古い団地のような鉄扉でした。

「すみません……」

 そう頭を下げる私の横で、私の濡れたジャージの下半身をジッと見つめる中国女は、鼻を摘みながらニヤニヤと笑っていました。
 ガタンっと鉄扉が開くと、暗闇の中、黒い影がサッと隠れるのが見えました。
 ここにもいる……。そう思った私は、ドカドカと部屋に入って行く中国女の細い背中を見つめながら、玄関の前に立ち止まってしまいました。

「鍵閉めなくちゃなんないから早く入ってよ……」

 髪の長い女は、中からドアを開いたまま面倒臭そうに私に言いました。

「いえ……もうトイレはいいですから……」

 そう断ると、髪の長い女は「はぁ」っと小さな溜め息をつきました。そして思い切り私を睨みつけると、歯をむき出しながら「糞がぁ」と吐き捨て、凄い勢いでドアを閉めたのでした。
 鉄扉の振動が治まると、辺りはシーンっと静まり返りました。
 廊下には、同じ鉄扉がずらりと並んでいましたが、しかし、どの部屋も電気は消え、まるで廃墟のように埃で汚れていました。
 私は廊下の手すりからソッと階下を覗き込みました。真下には、雑草とゴミだらけの空き地がぽっかりと口を開いていました。
 私は廊下の手すりを下から順番に、一、二、三、と数え、そこで初めてここが八階だという事に気づきました。
 すると、突然、背後でカタンっという音が聞こえました。それは鉄扉の鍵を落とした鉄音でした。恐らく、髪の長い女は、ドアを閉めた後もしばらくの間ドアスコープから私を見ていたのでしょう、気味が悪くなった私は、急いでその場から離れたのでした。
 
 エレベーターに向かって歩き出しましたが、しかし、あの女学生のいるエレベーターに一人で乗る勇気はありませんでした。
 非常階段で下りようと思い、そのままエレベーターの前を素通りすると、廊下の端まで行きました。
 埃だらけの非常階段が月の明かりに照らされていました。踊り場の鋼板は赤錆で剥がれ、所々に小さな穴が開いております。
 錆だらけの手すりを恐る恐る握り、大きく左右に揺らしてみると、その非常階段全体がグラグラと動いたような気がしました。それでもあのエレベーターに乗るくらいならと思い、手すりにしがみつきながら恐る恐る階段を下り始めたのでした。
 階段は赤錆でボロボロになっていました。いつ底が抜けるかわからないため、一段下りる前に、そこを爪先で確認しなければなりませんでした。
 この調子で一階まで行くのには、軽く一時間は掛かってしまうだろうと思いながら、一段一段慎重に下りました。そしてやっと七階に辿り着き、そのまま六階へ下りようと踊り場の角を曲がると、いきなりそこからは、階段に真っ黒な絨毯が敷き詰められていました。
 どうして? と思いながらも、まずは爪先で一段目を確認しようとそこに足を伸ばすと、突然、その黒い絨毯の全てが一斉にググっと動きました。
 私は、足を上げたまま「はっ」と息を飲みました。百羽、いえ、二百羽はいるでしょうか、なんとその階段にはカラスがぎっしりと踞っていたのです。
 一斉に顔を見上げたカラスは、その真っ黒な目でジッと私を見つめていました。一匹がカクッと首を傾げると、皆もそれに釣られて一斉にカクッと首を斜めに傾げます。
 宙に浮いたままの私の足が震えてきました。そしてその震えるスニーカーの踵が階段の角に当たり、カンと音を立てると、真ん中にいた一匹のカラスがそれに驚いたのか、突然真っ黒なくちばしを大きく開き、真っ赤な口内を剥き出してはシャャャャャと威嚇してきました。
 それに釣られた全てのカラスが、一斉にシャャャャャと威嚇してきました。
 それは、身の毛もよだつような光景でした。私のすぐ目の前で、くりくりの黒目をカッと引ん剝いた数百羽のカラスが、一斉に真っ赤な口を開いて威嚇しているのです。
 ガクガクと震える膝を慎重に後ろに下げました。そして息を止めたままジリジリとスニーカーの裏を鳴らし、少しずつ少しずつ後退しました。
 後ろ向きで角を曲がり、建物の廊下へと足を伸ばしました。そして非常階段の角からサッと体を引き、そのまま廊下に飛び込みました。
 その際、後ろ向きに飛んだ私の右腕が、非常階段の手すりに当たってしまいました。手すりがゴワンっと響きました。すると、それに驚いたカラスたちが一斉に蠢き、数百匹のカラスの足の爪が鉄の鋼板にカチカチと鳴り出しました。
 今にもカラスたちが一斉に階段を上って来ては、私に襲いかかって来るのではないかという恐怖に駆られました。
 悲鳴を必死に堪えながら逃げ出そうとすると、そんな私のすぐ後ろに誰かが立っておりました。
「はっ!」と振り返ると、闇の中に黒い顔がぼんやりと浮かんでいました。悲鳴を上げようとした瞬間、先ほどのヤンが闇からヌッと顔を出し、「どうしました?」と私の顔を覗き込んではニヤッと唇を歪めたのでした。

(つづく)

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